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第108節『面白い男』

第108節『面白い男』

 広間はざわめいていた。

 徳川家康が「同盟を結ぶ」と宣言した直後、その余波は城中の空気を震わせ、重臣たちが次々と異議を唱える。

 「殿! このような軽挙、承服できませぬ!」筆頭家老・酒井忠次が、蒼白になった顔を紅潮させて進み出る。「今は同盟など組むべき時にあらず! 井伊ごときに肩入れすれば、三河の内が乱れましょう!」

 忠次の声は、悲鳴のように掠れていた。他の重臣たちも「どうか再考を!」「井伊など、いずれ消えゆく泡沫に過ぎませぬ!」と続く。

 源次は、その光景を冷静に眺めていた。

 (家臣の反対など意に介さず、自らの意志だけで物事を決める。この強権ぶり……なるほど、これなら俺にとっては好都合だ)

 だが、その強権が自分に牙を剥く時、果たしてどうなるか。そんな予感が、背筋に冷たいものを這わせた。

 ふと視線を上げれば、家康は反発する家臣団を前に、どこか愉快そうに目を細めている。まるで子供が新しい玩具を見つけ、わざと他の子供たちを泣かせて遊んでいるかのような、残酷な笑み。


 「よい、もうよい」

 家康は、ぱん、と両の手を打ち鳴らした。その鋭い音が、混乱に沈む広間を一瞬で黙らせる。ぴたりと凍り付いた空気の中、家康はゆっくりと立ち上がり、源次の方へと向き直った。その口元には、悪戯を仕掛ける前の少年のような笑み。瞳は黒曜石のように冷たく、しかし底知れぬ光を帯びていた。

 「源次」と、低く名を呼ぶ声が広間に響く。「そなた、実に面白い男よ。気に入った」

 にやりと唇が吊り上がった瞬間、広間の空気が震えた。

 「同盟の証として――しばらく、この岡崎に逗留していけ。我が側近くにて、その知恵を儂に貸せい!」


 その言葉を聞いた瞬間、広間は完全に沈黙した。

 酒井忠次は絶句し、蒼白になった顔から血の気が引いていく。本多忠勝はぎり、と音を立てて奥歯を噛みしめ、握り締めた拳が白くなる。

 源次の背筋に、熱と冷たさが同時に走った。

 (……逗留命令!? これは……実質的な人質要求か?)

 大使としての表層意識が、冷静に状況を計算する。(断れば同盟は破棄。受け入れれば、俺は監視下に置かれる。選択肢は……ない)

 だが、その裏で別の声が叫んでいた。(マジかよ! 願ってもないチャンスじゃん! これで影武者の謎を徹底的に探れる!)

 (いや待て! これって軟禁じゃね? 下手すりゃ暗殺ルート一直線だぞ!)

 興奮と恐怖が、シーソーのように心を揺さぶる。だが、そのさらに深い層から、確固たる覚悟の声が湧き上がった。

 (危険は承知の上だ。この男の正体を暴くことこそが、長期的に直虎様を守る最善手になる……!)


 広間の静寂は、刀の刃のように鋭く張り詰めている。源次は深く息を吸い、腹を括った。

 「もったいなきお言葉。ですが、大使として同盟成立の儀を我が主・直虎へ直接報告する責務がございます。せめて、この供の者だけでも先に井伊谷へ帰し、事の次第を伝えさせてはいただけませぬでしょうか」


 源次は一度、大使としての体面を保つための抵抗を試みた。だが、家康は鼻で笑う。

 「ならぬ。報告なぞ、そなたの書状一本で十分であろう。それとも、儂の言葉が信じられぬと申すか?」

 有無を言わせぬ圧。そして、断れば同盟そのものが反故になりかねないという無言の脅し。源次は、もはや選択肢がないことを悟った。


 「……いえ、滅相もございません。ならば、謹んでお受けいたします。この源次、殿のお側にて学ばせていただけるのであれば、これに勝る光栄はございません」

 深々と頭を垂れる。額が畳に触れるほどに。

 家康は満足げに頷き、「うむ、それでよい」と告げた。

 だが源次の背後からは、燃えるような敵意が突き刺さる。酒井忠次の目は「お前はとんでもない過ちを犯した」と告げ、本多忠勝の瞳は「いつでも斬れるぞ」と冷徹に語っていた。

 四面楚歌。自ら虎の穴へと足を踏み入れたのだ。源次は、それを自覚した。

 だが――その奥には、真実が待っている。そして、直虎の未来も。

 「……さて、ここからが本番だ」

 心の中で呟きながら、源次は静かに背筋を伸ばした。彼の戦いは、新たな段階へと突入したのだった。

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