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第107節『同盟成立』

第107節『同盟成立』

 書院の空気は、まだ張り詰めたままであった。

 障子越しに差し込む秋の日差しさえ、息をひそめるように静止している。源次は正座を崩さず、ただ己の呼吸音が周囲に漏れぬよう必死に抑えていた。家康が次にどんな言葉を口にするか。それだけが、この場の運命を左右していた。


 家康はゆるりと背を伸ばし、源次を正面から見据えた。その眼光は、氷のごとく冷たく、同時に火のごとく鋭い。

 「源次とやら」と、低く力強い声が広間に響く。「そなたの口上、そして今の胆力――見事であった」

 (なぜ褒める……? 俺は禁忌を踏み、命を狙われたはずだろう!)

 源次の背筋を汗が伝う。家康は一拍の間を置き、重臣たちへとゆっくり視線を巡らせた。

 「こやつが申した『水の道』、そして『富』の話。まこと理に適っておる。我らが武田と雌雄を決するには、まさに必要なるものよ」

 家康の声音には揺るぎがない。そして――

 「よって、井伊家との同盟、この徳川家康が受けて立つ!」

 その声は雷鳴のごとく高らかに響き渡った。


 ――沈黙。

 張り詰めた空気が、いっせいに凍りつく。源次の脳裏は真っ白に染まった。

 (……え? 今、なんて……? 同盟を……受ける……?)

 思考が完全に停止し、ただ呆然と家康の姿を見つめるしかなかった。

 広間は、次の瞬間にはじけるようなどよめきに包まれた。

 「なっ……!」「御乱心にては……!」

 重臣たちが一斉にざわめく。その先頭に立ったのは、やはり酒井忠次であった。

 「お待ちくだされ、殿! その男、素性も知れぬばかりか、殿の御過去を探るような不届き者! 我らが命懸けで守るべき秘密の核心を嗅ぎまわる、最も危険な輩にございます! そのような者を信じ、同盟などと……!」

 老練の声が震えるのを、源次は聞き取った。それは単なる反対ではない。主君の身を案じる、魂からの叫びだった。

 (そうだ……これが当然の反応だ……! なのに、なぜ家康は……!?)


 家康は、酒井忠次らの反対を黙って聞き流していた。やがて、その瞳に雷光を宿し、一喝を放つ。

 「――黙れ!」

 広間全体が震え、ざわめきは押し潰された。

 「こやつが何者であろうと構わぬ! 井伊が我らにもたらす利は本物じゃ! そして、この男の目もまた、本物よ! この家康、己の目を信じる!」

 その言葉には、天下を見据える者だけが持つ覇気があった。源次は、心臓を鷲掴みにされるような衝撃を受けた。

 (こいつ……本気だ……! 俺が秘密に気づいているリスクごと、賭けてでも利用しようというのか……!)

 酒井忠次は唇を震わせ、言葉を失った。本多忠勝は眉間の皺をさらに深めながらも、沈黙を貫いた。主君の決断は、彼らの理解を超えていた。


 家康は、ようやく源次へと向き直った。その眼差しは、先ほどよりもわずかに柔らかみを帯びていた。

 「というわけだ、源次。これより、井伊は我が同胞。そなたも、もはや客人ではない」

 (は? 客人じゃない? これって……歓迎か監禁か、どっちなんだ!?)

 源次の頭の中で現代人の声がわめき散らすが、大使としての役目を思い出し、深く頭を下げた。

 「ははっ! その御決断、我が主・直虎に代わり、厚く御礼申し上げます!」

 口上を述べながらも、掌には冷や汗がにじむ。だがその感触すら、今は生の証のようにありがたく思えた。

 (やった……! やったぞ、直虎様……! 同盟は成った!)

 胸の奥で湧き上がる喜びが、恐怖や混乱を押し流していく。しかし――背中にはなお、酒井忠次や本多忠勝の鋭く冷たい、氷の刃のような視線が突き刺さっていた。

 同盟は成立した。だがそれは、徳川家臣団との新たな、そしてより危険な戦いの幕開けに過ぎないことを、源次は痛感していた。

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