第106節『忠勝の視線』
第106節『忠勝の視線』
酒井忠次の一言が、書院の空気を凍てつかせた。
先ほどまでの和やかな雰囲気は霧散し、代わりに氷のような沈黙が広間に満ちる。誰も声を発しない。ただ、香炉から立ち上る細い煙だけが、静かに時を刻んでいた。
源次は、喉を鳴らすことすらできなかった。
(しくじった……! 踏み込みすぎた。俺は、あの一言で徳川家最大の地雷を踏み抜いたんだ)
酒井忠次の眼差しが、じわじわと彼を縛り上げる。それはもはや探る視線ではない。「断罪する視線」だ。逃げ道を与えぬ冷徹さがそこにあった。
さらに、これまで腕を組んで沈黙していた本多忠勝の双眸が、鋭い光を宿した。鬼神と称される男の眼差しは、槍の穂先のように源次の喉元を突く。
(まずい……! 本気だ。この男は、いま斬れと命じられれば一分の迷いもなく、俺の首を落とすだろう)
全身に粟立つ感覚。冷や汗が背筋を伝い、畳へと落ちる。音は何もない。だが、忠勝の鎧がかすかに軋む音だけで、死が生々しい現実として迫ってくる。忠勝の内心は怒りに燃えていた。(この男……ただの使者ではない。殿の過去を探り、我らが命を懸けて守ってきた秘密の核心に触れようとしている。このような危険な男を生かしておくわけにはいかぬ!)
(冷静に考えろ……! ここで取り乱したら終わりだ。言い訳は墓穴を掘り、謝罪は弱みを晒す。ならば……耐えるしかないのか?)
表面意識が必死に戦略を練る裏で、本音は悲鳴を上げていた。
(やばいやばいやばい! このままじゃ殺される! 本気の殺気だ、間違いない!)
だが、その恐怖のさらに奥底で、もっと根源的な声が囁く。
(俺は死ねない。ここで斬られたら、井伊は徳川に呑まれる。直虎様が危うくなる。絶対に生きて帰るんだ! 推しを守るために!)
源次は、酒井や忠勝の視線をあえて受け流した。そして、ただ一人、家康の瞳だけを見据える。
(俺の交渉相手は、あんただけだ。無言で訴え続けるんだ――「俺はまだ敵じゃない」と!)
数分か、それとも数十秒か。時間の感覚は歪み、畳の上で膝をつく姿勢は拷問にも等しかった。
膠着は続く。誰も動かない。誰も言葉を発しない。
その均衡を破ったのは、家康だった。茶碗を静かに畳に置くと、にやりと笑う。
「……忠次、平八。殺気をしまえ。客人が怯えておるわ」
声音は穏やかだったが、逆らう余地はなかった。酒井忠次は薄く瞼を伏せ、本多忠勝は渋々ながらも瞳から殺気を消す。
張り詰めていた空気が、ほんのわずか緩んだ。
家康は再び源次へ視線を戻し、愉快そうに口角を上げる。
「……源次とやら。そなた、肝が据わっておるのか、ただの馬鹿か。いずれにせよ、面白い男よ」
その一言に、源次の心臓は再び跳ね上がった。
まだ生きている。だが、この男の真意は読めない。
(……俺は、生き延びたのか? それとも、さらに深い罠に足を踏み入れたのか?)
源次は、家康の笑みの裏に潜む影を見抜こうと、ただ息を潜めるしかなかった。