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第105節『漁師の話』

第105節『漁師の話』

 翌朝、源次は岡崎城の奥にある書院へと再び召し出された。

 昨夜の酒宴の余韻か、廊下には薄く酒と香の匂いが漂う。障子を透かす秋の日差しは柔らかく、畳の縁を黄金色に照らしていた。控えの間に通された源次は、深く息を吸い込む。

 (よし……今日が勝負だ。昨日の手応えを無駄にするな。ここで尻尾を掴む!)

 襖が開き、案内の小姓が頭を下げた。「源次殿、殿がお待ちでございます」

 源次は姿勢を正し、書院に足を踏み入れた。胡座をかき、湯気の立つ茶碗を片手にした家康が、にかっと笑う。

 「おお、源次。昨日の酒宴は愉快であったな。そなたの話ぶり、実に面白い。今日も何か聞かせてくれぬか?」

 源次は深々と頭を下げた。「では……漁師の与太話などをお耳に入れましょう」

 家康はますます目を細めた。

 (完全に油断している……。好機だ。だが、一歩誤れば命取りになる。慎重に、巧みに仕掛けろ!)

 源次は静かに腰を下ろし、話し始めた。


 「昔々、遠州の海辺に、一人の漁師とその息子がおりました。ある日、織田を名乗る海賊衆に捕らえられ、尾張へと連れ去られたそうにございます」

 部屋の隅で控える酒井忠次の眉が、かすかに動いた。本多忠勝は腕を組み、じっと源次を見据えている。

 だが、家康は楽しげに笑った。「ほう、漁師と息子が海賊に、か。続けよ、源次」

 源次は頷き、淡々と語りを進める。

 「その息子は捕らわれの身ながら、ある学問僧に手習いを受けたと申します。僧は厳しくも慈悲深く、こう教えたとか。『泰平の世を創るには、まず己の心を平らかにせよ』と」

 その瞬間、書院に漂っていた香の匂いが、やけに濃く感じられた。

 (今だ……! 今川義元の軍師・太原雪斎が、人質時代の竹千代(後の家康)に授けた教え。それを、この男が知っているかどうか!)

 源次は無邪気を装い、さらりと付け足した。「殿も、駿府におられた頃、雪斎禅師よりそのようなお教えを受けられたことがございましょうか?」


 その言葉が落ちた途端、家康の笑みが固まった。目がわずかに泳ぎ、茶碗を持つ手が止まる。書院の外で鳴いていた鳥の声が、妙に鮮やかに耳に響いた。

 沈黙。

 (……ビンゴだ!!!)

 源次の胸は歓喜に燃え、同時に全身の肌が粟立った。

 (奴は知らない……! 本物の松平元康ならば、この話を懐かしげに笑って返せるはずだ! こいつは、影武者だ!)

 家康の口が、ゆっくりと開いた。「……それは――」

 その刹那。「殿!」と鋭い声が響いた。酒井忠次だった。

 彼は前に出て、恭しくも強引に頭を下げる。「使者殿、その話は面白うございますが、少々長くなりすぎましたな。殿もお疲れのご様子。ここらで一服なさっては」

 咳払いが一つ。それは場の空気を断ち切る刃の音のように鋭かった。酒井の目は笑っておらず、冷ややかに源次ただ一人を射抜いている。その視線には、「これ以上は許さぬ」という明確な警告が宿っていた。

 家康はそのまま言葉を呑み込み、茶碗を口に運んだ。

 源次は、深く頭を下げた。「……恐れ入りました。つい、話に夢中になりすぎました」

 その声は穏やかだったが、手の中の汗は滴るほどであった。

 (危なかった……。だが、確かに掴んだ。あの沈黙こそが証拠だ!)

 伏せたままの額に、畳の冷たさが伝わる。

 (直虎様……俺はついに、この謎の核心へ手を伸ばしました!)

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