第104節『酒宴』
第104節『酒宴』
謁見を終えた源次は、奥座敷へと案内された。
そこは先ほどの厳粛な広間とは打って変わり、燭台の炎が煌々と照らし、壁際に掛けられた武具や戦旗が赤々と照り映えている。膳には川魚の塩焼き、鯉のあらい、猪の味噌仕立てといった、三河の野趣あふれる料理が所狭しと並べられていた。炭火に落ちた脂がじゅっと音を立て、酒の芳香と混じり合い、鼻腔を刺激する。盃を手にした武士たちは赤ら顔で笑い声を上げ、杯の触れ合う乾いた音が絶え間なく広がっていた。
(これが三河武士の酒宴……想像以上に荒々しい。だが、うっかり油断すれば命取りだ)
源次は背筋を伸ばしたまま、内心で己を戒める。直虎の未来を背負うこの身、一杯の酒でしくじるわけにはいかない。
その覚悟を試すかのように、本多忠勝が桶のような大盃を持って歩み寄ってきた。
「使者殿! いや、源次よ! さきほどの胆力、見事であったぞ!」
忠勝は盃をどんと置くと、酒をなみなみと注ぐ。「飲め! 我らに武士の心意気を示せ!」
周囲から「おう!」「飲め飲め!」と囃し声が上がる。
(……完全に洗礼だな。ここで弱気を見せたら、井伊は三河武士に呑まれる!)
源次は両手で盃を受け取り、腹を括った。一気にぐいとあおると、強い酒が喉を焼き、胃の腑で炎のように熱が広がる。
「おおっ!」と歓声が広間を揺らし、忠勝が豪快に笑いながら源次の背をばしばしと叩いた。
「ははは! よく飲んだ! 見事だ、源次!」
(くそ、強すぎる……。だが、漁師仕込みの飲みっぷり、伊達じゃないところを見せてやる!)
源次は顔色一つ変えず、静かに盃を置いた。その落ち着き払った様に、武士たちの見る目が変わっていく。
酒宴の熱気が頂点に達した頃、それまで黙って様子をうかがっていた徳川家康が、低い声で言った。
「源次とやら、こちらへ参れ」
その一声で、広間はすっと静まり返る。さきほどまでの喧騒が嘘のように、場の空気が張り詰めた。酒井忠次の目が細く鋭くなり、周囲の武士たちが居住まいを正す。
源次は家康の隣へと進み出て、深く一礼した。
「儂の隣で飲もうぞ」
家康は自らの手で源次の盃を取り上げ、酒を注ぐ。その豪放な仕草とは裏腹に、その瞳は獣のように鋭く源次を探っていた。
(ここからが本番だ。この男の正体を暴く。それが直虎様を守る道……必ずやり遂げる!)
「聞けば、そなたの故郷は浜名湖とか。儂も若き頃、駿府に人質としておった。海の話でも聞かせよ」
(来た。自分の過去は語らず、こちらの口を割らせようとする誘導尋問か)
源次は内心で警戒しつつも、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「はい、浜名湖と申せば、波は穏やかにして魚は豊か。鰻や鱸を獲って暮らしておりました」
源次は巧みに話を逸らし、逆に家康へと問いを返す。
「殿は、幼少のみぎり、どのような海をご覧になっておられましたか?」
その瞬間、家康の笑顔がかすかに曇った。ほんの一拍、呼吸が止まる。
(見た……! この男は、松平元康としての幼少期を語れない! 語れば矛盾が生じるからだ!)
源次の胸の内で、確信の鐘が鳴り響く。影武者説は、ほぼ黒だ。
だが、家康はすぐに豪快な笑い声を響かせた。
「儂か? 駿府におった頃は、海を眺めるよりも碁盤を睨んでばかりよ! ははは!」
その笑い声は、わずかな曇りなど無かったかのように広間を支配した。
(見事な切り返しだ。だが、隙は確かにある。次は、もっと巧妙に切り込む……!)
宴は夜更けまで続いた。源次は一瞬たりとも気を緩めず、家康の仕草一つひとつを観察し、その正体に迫るための証拠を丹念に集め続けた。
宿へ戻り、酔いと疲労で重い身体を横たえる。だが頭の芯だけは、興奮で冴え渡っていた。
闇の中で、直虎の面影が浮かぶ。
(直虎様……俺は必ず、この謎を暴き、あなたを守り抜いてみせます!)
その誓いを胸に、源次は次なる一手へと、静かに思考を巡らせるのだった。