第103節『観察』
第103節『観察』
謁見の間を満たしていた重苦しい沈黙は、徳川家康の雷鳴にも似た笑い声によって砕け散った。
「――はははははっ! 面白い! 実に面白いぞ、使者殿!」
腹の底から響くその声は、広間の壁に反響し、蝋燭の炎を激しく揺らす。張り詰めていた空気は一瞬だけ弛緩したが、それは決して緊張が解けたわけではなかった。むしろ、獣が牙を見せて笑うような、別種の圧力が場を支配し始めたのだ。
(来たな……!)
源次は顔を伏せたまま、冷静にその真意を探る。
(これは単なる笑いではない。俺の言葉を試すための、一流の武人ならではの構えだ。ここからが本当の交渉……一手でも間違えば、喰われる!)
家康の眼光は、笑みとは裏腹に氷のように冷ややかだった。
「だがな、使者殿」と、声の調子が低く沈む。「夢物語だけでは兵は動かぬ。その『水の道』とやら、具体的にどう守る? 武田は虎よ。ただの網では捕らえられぬぞ」
(試してきたか。ただの夢想家ではないことを証明しろと。……望むところだ!)
源次は脳裏で、歴史研究家としての知識、現代の戦略論、そしてこの場で使える言葉を瞬時に組み合わせる。
「御意。武田の虎は確かに猛き獣。しかし、獣は餌を求めて動くものにございます」
源次は静かに語り始めた。
「水の道を守るは、兵を並べることではございませぬ。むしろ、敵を迷わせ、飢えさせ、焦らせること。たとえば――遠州の海に通じる水夫たちを我らが抱き込み、偽の情報を流す。船団がどこから兵糧を運ぶかを錯覚させ、敵の目と耳を狂わせるのです」
家康の眉がぴくりと動いた。
「さらに、浜名湖の漁師衆を味方につければ、敵は湖を渡るにも舟を得られず、陸路に頼らざるを得ませぬ。その陸路を、山中の忍びが襲えば……兵站は乱れ、虎も牙を折ることでしょう」
源次は淡々と告げながら、相手の反応を観察し続ける。
(よし、目が細まった。唇の端がわずかに吊り上がっている。興味を示した証だ)
問答は続いた。源次が答えるたびに、家康は大きく頷き、時に唸り、時に笑った。その一挙手一投足を、源次は見逃さなかった。
(難しい話になると、左手の甲を親指で無意識に撫でているな。あれは火傷の痕か。過去の戦の記憶が疼く癖か)
(そして、家臣に意見を求める際、必ず最初に酒井忠次殿へ視線を送る。彼を絶対の参謀として信頼している証拠だ)
源次の分析は、この男の本質へと迫っていく。
家康は己の武勇伝――特に桶狭間からの脱出劇を語る時、その目は子供のように輝いた。
(虚勢ではない。彼は本当に、戦場の死線を武勲としてではなく、武人の遊戯として楽しんでいる。戦そのものを生き甲斐とする、根っからの武人だ)
だがその一方で、家臣を呼ぶ声には、主従を超えた温かみがあった。
(情に厚い。だからこそ、身内を見捨てる非情な決断が遅れる。史実における三方ヶ原の敗北も、この気質が招いた悲劇だったのかもしれん)
源次の背筋に、戦慄が走った。
(間違いない。この男は、戦場で兵を鼓舞する棟梁としては天賦の才を持つ。だが、冷徹に大局を計算し、時に非情を断行する『王』の器ではない)
畳を擦る衣の音がした。本多忠勝が、いつの間にか源次への侮りの視線を消し、畏敬の色を浮かべている。その変化が、源次の推論を裏付けていた。
やがて、問答が一段落した。
家康は大きく息を吐き、口角を吊り上げる。
「……貴様、気に入った!」
その声が、再び広間を揺るがした。
謁見は終わりを告げ、退出を命じられた源次は深々と一礼し、静かに廊下へと出た。冷たい夜風が汗ばんだ頬を撫でる。
(結論は出た。この男は最高の武人であり、最高の棟梁だ。だが、この男を天下人にするには、彼の隣で、彼にできぬことを補う懐刀が絶対に必要になる)
その役割を、自分が果たす。その確信が、源次の胸に宿った。
(すべては――あの人が、平穏に暮らせる未来のために!)
源次は唇を噛みしめた。廊下の先に広がる闇が、これから自分が歩むべき長く険しい道を象徴しているかのようだった。