第102節『口上』
第102節『口上』
謁見の間には、息苦しいほどの沈黙が満ちていた。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、広間の隅々にまで伸びる影が、まるで生き物のように蠢いている。その影の中心で、徳川家康は虎のように身じろぎもせず、ただ射抜くような視線を源次に注いでいた。酒井忠次は眉間の皺をさらに深くし、本多忠勝は腕を組んだまま、今にも口を挟まんとする気配を隠そうともしない。衣擦れの音、誰かが固唾を呑む小さな気配。そのすべてが、静寂をかえって重苦しいものに変えていた。
(ここだ……。直虎様の声を、この男たちの心に直接響かせなければならない)
源次は背筋を伸ばし、一度深く息を吸い込んだ。冷や汗で濡れた掌を袴で拭い、姿勢を正す。畳のざらついた感触が、この身が確かに戦国の世にあることを教えてくれる。
「――我が主、井伊直虎が申しますには」
源次の声は決して大きくはなかった。だが、広間の隅々まで澄み渡り、まるで清流が濁った水を押しのけるように、重苦しい空気を切り裂いた。
(よし、食いついた。ここからは俺の舞台だ。だが、俺個人の言葉として語ってはならない。あくまで直虎様の威光を借りるのだ。頼む、通じてくれ……これが通らなければ、推しの未来が!)
源次は儀礼的な挨拶を手短に済ませ、すぐに核心へと踏み込んだ。
「まず第一に――我ら井伊の地は、徳川様にとり最上の『盾』となりましょう」
その言葉に、家臣たちの間に微かなざわめきが走る。
「甲斐の武田が西へ進むならば、必ずや遠江を抜けねばなりませぬ。その要害こそが井伊谷。山と川に囲まれた我らの地を抜かずして、武田は三河へは至れませぬ。徳川様の御背を守り抜くこと、それこそが我ら井伊に課せられた宿命にございます」
理路整然とした分析に、酒井忠次の目がわずかに細められる。策士として知られる彼が、この提案の持つ戦略的価値を即座に理解した証拠だった。
「されど――」と源次は、あえて一呼吸置いた。声の調子を落とし、広間の注目をさらに引きつける。「井伊が徳川様へ差し出せる真の価値は、陸にはございませぬ」
その言葉に、本多忠勝の眉がひそめられた。武勇こそを至上とする彼にとって、それは挑発的な物言いに聞こえただろう。
だが源次は怯まない。
「遠江を抱く浜名湖、そして天竜川が注ぐ遠州灘。その『水の道』こそ、井伊が徳川様へ差し出せる最大の力にございます」
広間が静まり返る。誰もが予想しなかった視点だったからだ。
「ご存じの通り、遠州灘は荒れる海。しかし、井伊谷を拠点とする水運を制すれば、たとえ陸路が武田に塞がれようと、兵糧や武具を海より運び込むことが可能となります。何より、人の流れを武田に妨げられることなく保つことができるのです」
(史実では、家康は武田の兵站攻撃に常に苦しめられた。三方ヶ原の敗戦も、補給路の脆弱性が一因だった。この提案は、彼の喉から手が出るほど欲しいはずだ!)
ざわ……と家臣たちの間に低い波が広がる。酒井忠次は驚きに目を見開き、本多忠勝でさえ、組んだ腕を解いて真剣に聞き入っている。
源次は、最後の切り札を切った。
「しかも、その水の道はただ兵を養うに留まりませぬ。塩、魚、木綿……これらを京や堺へと運べば、莫大な富の流れが徳川様のもとへと集まりまする。井伊は、徳川様の軍資金を生み出す金脈ともなりましょう」
蝋燭が爆ぜ、影が一斉に踊った。
「我が主・井伊直虎が申し上げるは、単なる兵や忠誠ではございませぬ。徳川様にとって――盾であり、補給路であり、そして富をもたらす礎となること。これこそが、井伊がお示しする『誠』にございます」
(言った……言い切ったぞ。あとは、この影武者かもしれない男が、この未来図を理解できる器かどうかだ……!)
源次は深々と頭を下げた。畳の目が視界いっぱいに広がり、己の心臓の音が耳の中で轟いている。
謁見の間を覆うのは、もはや殺気ではなかった。驚きと感嘆、そして値踏みするような沈黙が混じり合う、濃密な空気。
源次は顔を伏せたまま、家康の反応を待った。炎の音、衣擦れの気配、汗の匂い――五感が極限まで研ぎ澄まされる中、ただ一つ、直虎の面影だけを胸に抱きしめる。
(負けられない。俺がここで倒れれば、あの人の未来が閉ざされる……!)
広間は、歴史の転換点を前に、重すぎるほどの静寂に沈んでいた。