第101節『謁見の間』
第101節『謁見の間』
「――我が器を、確かめに来たと申すか」
徳川家康が放った問いは、刃のように謁見の間の空気を切り裂いた。静寂の中、その声だけが残響となって広間を満たし、梁にまで染み渡るかのようだった。刹那、両脇に控える徳川家臣団の息遣いが一斉に硬くなり、畳に落ちる影が深みを増す。源次は膝をついたまま、微動だにしなかった。
(ここからが、本当の戦いだ)
外面はあくまでも使者としての礼節を崩さず、視線も動かさない。だが、その内側では歴史研究家としての全神経が、目の前の男――徳川家康を分析するために火花を散らしていた。観察を怠れば、井伊家の未来を左右する交渉の糸口を掴めない。直虎の想いを無駄にするわけにはいかないのだ。
目の前に座す家康は、後世に伝わる「老獪な狸親父」の面影など微塵もなかった。武骨な肩幅は虎を思わせ、日に焼けたその手は、まるで岩から削り出したかのように節くれだっている。顔つきも、泰平の世を築いた穏やかな老人のそれとは似ても似つかぬ、野性的な鋭さに満ちていた。
(違う……。俺が知る松平元康は、今川で人質として育った、もっと線の細い貴公子然とした男だったはずだ。それが桶狭間を境に、これほどまでの武人に変貌するなどあり得るのか?)
源次の脳裏で、長年追い求めてきた「家康影武者説」が、確かな輪郭を持って浮かび上がる。史書に一行だけ記された謎の人物――世良田元信。もし、入れ替わったのが真実ならば、この豪放な雰囲気は、元の元康を模倣するのではなく、全く新しい「家康」という人格を演じていることになる。
源次の観察は細部に及ぶ。指の関節の太さ、左手の薬指に残る古い火傷の痕、頬を走る浅い刀傷。そのどれもが、史料にある元康の記録とは一致しない。家臣たちの異様なまでの警戒心も、その疑念を補強していた。酒井忠次の眉は常に吊り上がり、本多忠勝に至っては、いつ抜刀してもおかしくない気配を隠そうともしない。彼らはただ主君を守っているのではない。「影武者」という、徳川家最大の秘密を守るために、鉄の壁と化しているのだ。
源次の思考が確信へと近づく。一つ一つの違和感が繋がり、点と点が線になる。家康が発する声の荒々しさ、床を踏む足音の乾いた響き、獣のような気配――それら全てが、本物の元康とは別人であることを示唆していた。影武者説は、もはや単なる疑念ではなく、目の前の現実を読み解くための最も有力な仮説へと変わっていた。
それでも、源次は外面の冷静を保ち続ける。歴史の謎を解き明かしたいという研究者の興奮と、命の危険を感じる一個人の恐怖。その二つを抑え込み、彼の心を支えているのは、ただ一つの強い想いだった。
(俺は、直虎様の言葉を預かっている。この男の威圧に屈し、推しの想いを曲げることだけは、絶対にあってはならない)
家康が、狼のように目を細めた。その視線が、源次の心の奥底まで探ろうとする。
(恐れはある。だが、それを表に出せば、井伊の言葉は届く前にかき消される)
源次は静かに息を吸い込んだ。恐怖も好奇心も、すべてを覚悟という名の炎で燃やし尽くす。使者として、そして直虎を守る懐刀として、今こそ己の全てを懸ける時だった。
家康の挑発的な問いに対し、源次は深く頭を下げたまま、静かに口を開いた。その声は意外なほど柔らかく、しかし決して折れぬ芯が通っていた。
「お言葉ですが、徳川様。私が確かめに参ったのは、貴殿の器ではございません」
広間の空気が凍り付く。家臣たちの視線が一斉に突き刺さるが、源次は言葉を続けた。
「ただ、我が主・井伊直虎の言葉を、寸分違わずお伝えするために参上いたしました。井伊家が今、何を思い、どこへ向かおうとしているのか。その誠の心を、ただお聞き届けいただくために」
家康の挑発を真正面から受け止め、しかし巧みにいなす。そして、交渉の主導権が井伊側にあることを暗に示唆する。それは、ただの足軽上がりの男が発する言葉ではなかった。謁見の間の誰もが、この使者が只者ではないことを悟った瞬間であった。