第100節『いざ、謁見へ』
第100節『いざ、謁見へ』
本多忠勝が退いた後、岡崎城の重厚な門は完全に開かれた。
源次は、背後でまだ震えが止まらない供の若武者たちを振り返ることなく、ただ前を見据えて石畳の道を踏みしめた。一歩ごとに、鎧直垂の裾が乾いた音を立てる。
城内は、静まり返っていた。しかしそれは、人の気配がない静けさではない。壁の向こう、櫓の陰、廊下の角――あらゆる場所から、無数の視線が突き刺さってくる。
供の若武者たちは門前で待機するよう命じられ、この先は源次一人の戦いである。
案内役の家臣に導かれ通されたのは、謁見の間ではなく、城の一角にある書院だった。
「しばし、こちらでお待ちくだされ」
そう言い残し、家臣は去っていく。部屋には源次ただ一人。静寂が、彼の神経をすり減らしていく。
(……そうか。まだ試されているのか)
本多忠勝は武の壁。ならば、次に来るのは知の壁に違いない。源次は心を固め、静かにその時を待った。
やがて、障子が音もなく開いた。
現れたのは、柔和な笑みを浮かべた老臣だった。その目は細く、一見すると人の良さそうな好々爺にしか見えない。だが、源次は知っていた。この男こそが徳川家臣団の筆頭、酒井忠次。その笑顔の裏には、百戦錬磨の老獪さが隠されていることを。
「これは、井伊家からの御使者殿。長旅、ご苦労であったな」
酒井は自ら茶を淹れ、源次に差し出した。
「さて……我が殿にお会いになる前に、まずはこの老骨めに、御用向きをお聞かせ願えまいか」
言葉は丁寧だが、その瞳の奥は笑っていなかった。これは前哨戦。ここで力量を見せられなければ、家康に会うことすら叶わぬだろう。
源次は茶を一口含むと、静かに口を開いた。
「我らが望むは、徳川家との同盟にございます」
「ほう。武田の圧力が強まる今、頼る先を我らに、と」
酒井の言葉には、わずかに侮りが滲む。源次はそれを真っ向から受け止めた。
「いいえ。頼るのではなく、支えるために参りました。武田が狙うは遠江。その地を知り尽くした我ら井伊が味方につけば、徳川様にとってこれほどの利はないはず。我らが差し出すは、忠義ではなく、勝利への道筋にございます」
その言葉に、酒井の細い目がわずかに見開かれた。
「……面白いことを申される。して、その道筋とやらは、我が殿にお話しくださるのか」
「無論でございます。ただし――」
源次は一息つき、言い放った。「――我が主君が、信ずるに足る器であると、この目で見届けた上で」
部屋の空気が凍り付いた。
酒井の笑顔が、ぴたりと消える。
「……貴殿は、我が殿を値踏みしに来たと申すか」
声は低いが、その奥には氷のような怒気があった。
源次は一歩も引かなかった。
「井伊の命運、ひいては遠江の未来を託す御方です。この源次、命を賭して見定める覚悟にございます」
しばしの沈黙。
二人の視線が、火花を散らすように交錯した。
やがて、酒井はふっと息を吐き、再びあの柔和な笑みを浮かべた。
「……参ったな。これは、面白い男が来たものじゃ」
彼は立ち上がると、源次に言った。「よろしい。殿にお会いいただこう。だが、その命知らずな物言いが、殿の前で通用するかどうか……この老骨めには、分かりかねますぞ」
酒井が部屋を出ていくその背を見送りながら、源次は気づいていた。部屋の外で、数人の影が音もなく動き、城の奥へと駆け抜けていくのを。
(……始まったか)
この短い対話の時間に、酒井はすでに手を打ったのだ。
案内されたのは、広大な謁見の間だった。
その光景に、源次は息を呑んだ。
上座に座る家康の両脇には、本多忠勝、榊原康政、石川数正ら、徳川家の名だたる重臣たちがずらりと並び、まるで城壁のように控えている。
(……やられた)
源次の背筋を冷たい汗が伝う。
(俺が酒井殿と話している間に、これだけの者たちを揃えたというのか……!)
これは、ただの謁見ではない。井伊家からの使者一人に対し、徳川家が組織の総力を挙げて審問にかけるという、無言の示威行為だ。
源次は、作法通りに広間の中央まで進み、深々と頭を下げた。
「井伊家よりの使者、源次と申します」
家康は何も言わず、ただ源次を見下ろしている。
やがて、若々しいが深く響く声が広間を満たした。
「……面を上げよ」
源次はゆっくりと顔を上げる。
初めて、歴史の巨人と視線を交えた。
その瞬間、源次は確信した。酒井との前哨戦など、子供の遊びに過ぎなかったと。目の前の男が放つ威圧感は、王だけが持つ異質なものだった。
(これが、徳川家康……。俺が追い求めてきた謎の核心)
家康が口を開いた。
「……酒井から聞いたぞ。そなた、我が器を確かめに来たと」
その言葉に、広間に並ぶ重臣たちの間に殺気だった空気が走る。
源次は膝の震えを必死に抑え、背筋を伸ばした。
(ここからが本当の戦いだ)
この謁見が、彼自身と井伊家、ひいては未来の運命を左右することを、彼ははっきりと自覚していた。