第10節『邂逅』
第10節『邂逅』
谷間の空気が変わるのを、源次は肌で感じた。
外の街道ではまだ残暑の熱気がまとわりついていたが、一歩、井伊谷に足を踏み入れると、山々が抱く盆地の空気がひんやりと胸を撫でていった。
「……ここが、井伊谷」
声に出すことはない。ただ胸の奥で、静かに呟いた。
左右の斜面は、切り立ったというよりは緩やかで、谷底には稲穂が風に揺れている。まだ黄金色に染まりきる前の瑞々しい稲田。畦道には働き手の農民がちらほらと姿を見せ、子供たちが水辺ではしゃぐ声が微かに響いていた。
戦国の只中にあって、この穏やかさ。
「(……やっぱり直虎様の治世は伊達じゃない。こんな山間の小国で、よくぞここまで民を落ち着かせている……! 尊い! 偉業すぎる!!)」
胸の内では拍手喝采、スタンディングオベーション。だが外の顔は一切動かない。
焼け焦げた浜名湖の村から流れ着いた――そういう「設定」の男は、感慨に浸るような顔は見せぬ。
源次は無骨な風体のまま、歩みを進めた。
やがて、谷の奥まった丘に、井伊家の館が現れた。
それは戦国の城郭というより、領主の政を執る館。周囲を木柵で囲み、見張り櫓を備えてはいるが、石垣も天守もない。だが小規模ながら、きちんと掃き清められた庭と白壁の佇まいは、井伊家の矜持を示していた。
「……」
源次は門前に立ち、深く息を吸い込んだ。
この瞬間のために、数えきれぬほど練習した。表情、言葉遣い、立ち居振る舞い。
「浜名湖で全てを失った腕利きの漁師」という仮面を、今こそ完璧にかぶらねばならぬ。
門番が槍を交差させて前に出た。
「止まれ。何者だ」
鋭い眼差し。だが、その瞳の奥には、わずかに人手不足ゆえの焦りが滲んでいる。
源次は、計算通りに口を開いた。
「……働き口を探して流れてきた者だ。腕には、覚えがある」
低く、ぶっきらぼうに。
その声には、悲しみを滲ませつつも、誇りを失わぬ響きが宿っていた。
門番は怪訝そうに眉をひそめ、源次の身なりを見やる。
粗末な着物。日焼けした肌。無駄のない筋肉。
ならず者のようでありながら、ただの漂泊者とも違う。
「……待て。取次を呼ぶ」
槍を下げ、家中の者を呼びに行った。
――最初の関門は、突破した。
源次は心中で小さく息をつく。
だが同時に、血が逆流するような昂揚が、胸を突き上げていた。
「(いよいよだ……! 直虎様が、この奥にいらっしゃる……! 会える、ついに……! うわあああ!! 俺、生きててよかったああ!!)」
だが、顔は石のように動かさぬ。
間もなく現れたのは、四十がらみの中年武士。
顎に髭を蓄え、目は鋭くも疲れを帯びていた。取次を務めるに相応しい人物である。
「……お前が、働きたいと申すか」
「左様」
「名は」
「……浜名湖の源次。村を焼かれ、流れ着いた」
間髪を容れぬ答え。練り上げた設定を、一分の隙もなく口にする。
武士の眼が、鋭さを増した。
「腕には覚えがあると聞いた。何ができる」
待ってました、と源次は心中で快哉を叫ぶ。
「漁師故に、水には詳しい。舟も扱える。夜目も利く。喧嘩も……人並みには」
短く、そっけなく。だが要点はしっかり伝える。
槍働きだけでなく、多角的に役立つ――その印象を残すように。
「……ふむ」
武士はしばし考え込む。
人手が欲しいのは事実だ。だが、素性の知れぬ男を易々と家中に入れるわけにもいかない。
そのときだった。
館の奥で、襖が音もなく開いた。
すっ……と、空気が変わる。
場にいた家臣たちが、一斉に頭を垂れた。
取次の武士さえ、思わず背を正す。
――その視線の先。
尼僧姿の女が、静かに立っていた。
白い小袖に黒い袈裟。髪はきちんと結われ、面差しは涼やかに引き締まっている。
通った鼻筋、凛とした目元。唇は固く結ばれていたが、その眼差しには揺るぎない意志が宿っていた。
井伊直虎。
領主にして尼僧。戦国の只中を女として背負う、稀有の存在。
源次の心臓が、喉から飛び出さんばかりに高鳴った。
「(う、うわあああああああああ!!! 出たあああああ!!! 直虎様ご本人ぃぃぃぃ!!! 尊い! 尊い! 尊すぎる!!! 史料で見た肖像画の何百倍も美しいし、オーラが段違い! これが……俺の推し……俺の運命の人!!)」
涙すら出そうになる。だが、顔には欠片も出さない。
無骨な漁師は、ただ静かに膝を折る。
直虎は、源次を射抜くように見据えた。
「そなたが、働きたいと申す者か」
澄み切った声。
その一言で、館全体の空気がさらに張り詰めた。
「(うわあああああ! 声も美しい! 鐘の音か! 録音したい! いやいや落ち着け俺! 今は演技中だ! オタク顔、出すな俺!!)」
源次は己を叱咤し、深く、深く頭を下げた。
「……左様にございます」
その背に、静けさが降りる。
やがて、直虎が許すように言った。
「顔を上げよ」
ゆっくりと。
源次は顔を上げた。
その瞬間――視線が交錯する。
直虎の瞳は、領主としての冷徹な光を宿していた。
一方、源次の目には、作り物の悲しみと、奥底に隠した鋼のような決意が燃えていた。
「(俺は、この人を守るためにここに来たんだ。歴史を変えてでも、推しを守り抜く。それが、俺の使命だ)」
直虎の眉が、かすかに動いた。
何かを感じ取ったのか。
言葉にはならぬが、確かに互いの心が交わる瞬間だった。
その沈黙こそが、運命の始まりを告げる。
井伊谷の館に、荘厳な余韻が広がった。