表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/93

第1節『本と潮の匂い』

第1節『本と潮の匂い』

 雨は、夜の帳をさらに厚くするかのように、窓硝子を細かく叩き続けていた。

 規則正しくも不規則なそのリズムは、遠い世界の鼓動のように、書斎の静けさをより濃く際立たせる。

 歴史研究家として三十余年の人生を費やしてきた「私」にとって、この夜はいつもと変わらぬ研究の時間であるはずだった。

 書棚に並ぶ無数の背表紙は、長い年月をかけて集めた専門書と史料集。背の高い梯子を使わなければ届かぬ最上段には、江戸初期の版本や、学会仲間に鼻で笑われた「影武者説関連」の怪しげな史料までが所狭しと並んでいる。

 その中央の机に鎮座しているのが、先日都内の古書店で偶然出会った古文書だった。

 湯気を立てるマグカップのコーヒーは、苦味の奥に焦げたような深い香りを残し、鼻腔を満たす。

 古い紙の酸化した匂いと混じり合い、研究者にとって至高の芳香を醸し出していた。

 私の手元には、崩し字辞典と数冊の参考史料。

 そして右手には拡大鏡。

 そのレンズ越しに浮かび上がる墨跡の曲線を、私は息を詰めて追いかけていた。

 ――徳川家康影武者説。

 歴史界隈では、眉唾の代表格とされる仮説だ。桶狭間で敗北し命を落とした松平元康の代わりに、三河の世良田一族から「元信」という人物がすり替わった――。

 そんな荒唐無稽だと嘲笑される話を、私は何十年も執念深く追いかけてきた。

「またその話か」と学会仲間に笑われるたびに、胸の奥が冷えた。

 だが同時に、孤独が私の情熱をさらに燃え上がらせた。

 世に知られぬ謎にこそ、歴史の真実は潜んでいる。私はそう信じて疑わなかった。

 その古文書の一節に、私はついに足を止めた。

 墨はかすれ、紙は破れかけている。だが確かに、こう書かれていた。

 ――「元信、三河にて竜の玉座を継ぐ」

 竜の玉座。

 比喩か、暗号か。それとも、天下人の座そのものを指すのか。

 胸が高鳴った。

 指先が自然と震え、コーヒーカップの表面に微細な波紋が広がる。

 長年の研究の中で、初めて核心に触れたような感覚だった。

「もし、この言葉の意味を解き明かせたら……」

 私は独りごちた。

 拡大鏡を外し、乱雑に積み上げた史料の中から、家康周辺の系譜を記した一冊を引っ張り出す。

 頁をめくり、古文書の記述と突き合わせる。

 点と点が、線になろうとしていた。

 何年も夢に見た瞬間が、今まさに訪れようとしている。

 額にじんわりと汗が滲む。

 鼓動が速まる。

 頭の中で声が囁く。

 ――この説が真実なら、歴史は書き換わる。

 ――家康の天下泰平は、影武者が築いた虚像となる。

 ――日本の礎は、すり替わりの上に立っていたのだ。

 高揚のあまり、私は思わず身を乗り出した。

 書斎の空気が異様に濃く感じられる。

 静寂が、耳鳴りのように重く圧し掛かる。

「この謎を解き明かせたら……」

 その瞬間だった。

 ――キィィン。

 鋭い音が頭の奥に突き刺さった。

 金属を擦り合わせたような甲高い耳鳴り。

 コーヒーカップを持つ手が震え、黒い液体が机に零れ落ちる。

「……っ」

 呼吸が浅くなる。

 視界が、ぐにゃりと波打った。

 壁一面の書棚が溶け出すように形を崩し、文字が液体のように垂れ流れていく。

 本の背表紙が歪んで流れ落ち、床に滴り落ちる。

「な、んだ……?」

 椅子から転げ落ち、床に叩きつけられる。

 冷たい衝撃が背中を走る。

 だが痛みさえ、現実感を欠いていた。

 雨音が遠ざかる。

 コーヒーの香りも、古紙の匂いも、消えていく。

 音も匂いも色も、すべてが白い靄に吸い込まれていく。

 視界が狭まる。

 耳鳴りが、世界を塗りつぶす。

「なんだ……これは……」

 その言葉を最後に、私は深い闇へと落ちていった。

 最初に戻ってきたのは、嗅覚だった。

 鼻腔を突き破るような強烈な匂い。

 湿り気を帯びた、生臭い――潮の香り。

 さらに、その奥にかすかに混じる、魚のはらわたのような鉄臭さ。

 書斎のコーヒーとは似ても似つかない、むせ返るほど生々しい匂いだった。

 次に気づいたのは背中。

 柔らかな絨毯の感触はない。

 代わりに、ひんやりとして硬い板の間。

 節くれだった木目が、皮膚を刺すように伝わってきた。

 耳に届くのは、波の音。

 ザアァ……ザアァ……と、規則正しく繰り返す。

 書斎の雨音ではない。

 海。

 これは確かに、海の音だ。

 重たい瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは黒光りする木の梁だった。

 見慣れた天井ではない。

 古びて、湿気を帯び、歴史の重みを背負ったような木材。

「……っ」

 私は慌てて身を起こそうとした。

 そのとき、視界の端に自分の手が映った。

 ――手。

 白く細いはずの指先は、日に焼け、皮膚は荒れ、骨ばっている。

 無数の傷とタコ。

 研究室に籠もる歴史家の手ではない。

 それは、漁師の手だった。

 喉がひゅ、と詰まる。

 呼吸ができない。

 心臓が痛いほど暴れ、頭の中が空白になる。

 私は、己の手を凝視した。

 触れても、掻きむしっても、それは消えない。

 紛れもなく、私の「手」だった。

「――これは……誰の手だ?」

 その問いだけが、心の奥にこだました。

 答えは、どこにもなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ