第1節『本と潮の匂い』
第1節『本と潮の匂い』
雨は、夜の帳をさらに厚くするかのように、窓硝子を細かく叩き続けていた。
規則正しくも不規則なそのリズムは、遠い世界の鼓動のように、書斎の静けさをより濃く際立たせる。
歴史研究家として三十余年の人生を費やしてきた「私」にとって、この夜はいつもと変わらぬ研究の時間であるはずだった。
書棚に並ぶ無数の背表紙は、長い年月をかけて集めた専門書と史料集。背の高い梯子を使わなければ届かぬ最上段には、江戸初期の版本や、学会仲間に鼻で笑われた「影武者説関連」の怪しげな史料までが所狭しと並んでいる。
その中央の机に鎮座しているのが、先日都内の古書店で偶然出会った古文書だった。
湯気を立てるマグカップのコーヒーは、苦味の奥に焦げたような深い香りを残し、鼻腔を満たす。
古い紙の酸化した匂いと混じり合い、研究者にとって至高の芳香を醸し出していた。
私の手元には、崩し字辞典と数冊の参考史料。
そして右手には拡大鏡。
そのレンズ越しに浮かび上がる墨跡の曲線を、私は息を詰めて追いかけていた。
――徳川家康影武者説。
歴史界隈では、眉唾の代表格とされる仮説だ。桶狭間で敗北し命を落とした松平元康の代わりに、三河の世良田一族から「元信」という人物がすり替わった――。
そんな荒唐無稽だと嘲笑される話を、私は何十年も執念深く追いかけてきた。
「またその話か」と学会仲間に笑われるたびに、胸の奥が冷えた。
だが同時に、孤独が私の情熱をさらに燃え上がらせた。
世に知られぬ謎にこそ、歴史の真実は潜んでいる。私はそう信じて疑わなかった。
その古文書の一節に、私はついに足を止めた。
墨はかすれ、紙は破れかけている。だが確かに、こう書かれていた。
――「元信、三河にて竜の玉座を継ぐ」
竜の玉座。
比喩か、暗号か。それとも、天下人の座そのものを指すのか。
胸が高鳴った。
指先が自然と震え、コーヒーカップの表面に微細な波紋が広がる。
長年の研究の中で、初めて核心に触れたような感覚だった。
「もし、この言葉の意味を解き明かせたら……」
私は独りごちた。
拡大鏡を外し、乱雑に積み上げた史料の中から、家康周辺の系譜を記した一冊を引っ張り出す。
頁をめくり、古文書の記述と突き合わせる。
点と点が、線になろうとしていた。
何年も夢に見た瞬間が、今まさに訪れようとしている。
額にじんわりと汗が滲む。
鼓動が速まる。
頭の中で声が囁く。
――この説が真実なら、歴史は書き換わる。
――家康の天下泰平は、影武者が築いた虚像となる。
――日本の礎は、すり替わりの上に立っていたのだ。
高揚のあまり、私は思わず身を乗り出した。
書斎の空気が異様に濃く感じられる。
静寂が、耳鳴りのように重く圧し掛かる。
「この謎を解き明かせたら……」
その瞬間だった。
――キィィン。
鋭い音が頭の奥に突き刺さった。
金属を擦り合わせたような甲高い耳鳴り。
コーヒーカップを持つ手が震え、黒い液体が机に零れ落ちる。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
視界が、ぐにゃりと波打った。
壁一面の書棚が溶け出すように形を崩し、文字が液体のように垂れ流れていく。
本の背表紙が歪んで流れ落ち、床に滴り落ちる。
「な、んだ……?」
椅子から転げ落ち、床に叩きつけられる。
冷たい衝撃が背中を走る。
だが痛みさえ、現実感を欠いていた。
雨音が遠ざかる。
コーヒーの香りも、古紙の匂いも、消えていく。
音も匂いも色も、すべてが白い靄に吸い込まれていく。
視界が狭まる。
耳鳴りが、世界を塗りつぶす。
「なんだ……これは……」
その言葉を最後に、私は深い闇へと落ちていった。
◆
最初に戻ってきたのは、嗅覚だった。
鼻腔を突き破るような強烈な匂い。
湿り気を帯びた、生臭い――潮の香り。
さらに、その奥にかすかに混じる、魚のはらわたのような鉄臭さ。
書斎のコーヒーとは似ても似つかない、むせ返るほど生々しい匂いだった。
次に気づいたのは背中。
柔らかな絨毯の感触はない。
代わりに、ひんやりとして硬い板の間。
節くれだった木目が、皮膚を刺すように伝わってきた。
耳に届くのは、波の音。
ザアァ……ザアァ……と、規則正しく繰り返す。
書斎の雨音ではない。
海。
これは確かに、海の音だ。
重たい瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは黒光りする木の梁だった。
見慣れた天井ではない。
古びて、湿気を帯び、歴史の重みを背負ったような木材。
「……っ」
私は慌てて身を起こそうとした。
そのとき、視界の端に自分の手が映った。
――手。
白く細いはずの指先は、日に焼け、皮膚は荒れ、骨ばっている。
無数の傷とタコ。
研究室に籠もる歴史家の手ではない。
それは、漁師の手だった。
喉がひゅ、と詰まる。
呼吸ができない。
心臓が痛いほど暴れ、頭の中が空白になる。
私は、己の手を凝視した。
触れても、掻きむしっても、それは消えない。
紛れもなく、私の「手」だった。
「――これは……誰の手だ?」
その問いだけが、心の奥にこだました。
答えは、どこにもなかった。