70、ノクテリアへ
ーーある日の朝。
いつものように、朝になっても、ユリウスの腕は私を離さなかった。
まるで、夢と現の境目にしがみつくみたいに。
私は静かに目を開ける。
「……ユリウス」
呼びかけると、彼もゆっくりと目を開けた。
けれど、まだ私を離そうとはしない。
「……ミレイナ」
低い声。
瞳の奥に、まだ少し迷いの影が残っている。
私はそっと手を伸ばして、彼の頬に触れた。
そのまま、額と額をそっと寄せる。
「......そろそろ、起きましょう」
囁くと、ユリウスはほんのわずかだけ瞳を閉じた。
そして、何も言わずに、私の額に唇を落とす。
静かに。
触れるだけの、朝のキスだった。
胸の奥が、ふっとあたたかくなる。
「……ああ」
ユリウスは小さく息を吐いて、腕をほどいた。
けれどその手は、最後の瞬間まで、私の腕を名残惜しそうに撫でていた。
***
朝食のあと、執務室に呼ばれた。
ユリウスが机の上に、丁寧に封蝋された手紙を置いていた。
「……ノクテリア辺境伯家からだ」
私の胸がきゅっと鳴った。
ユーフェミア様の名前が、何も言わなくても心に浮かぶ。
「……返事が来たのね」
私の声は、思っていたよりも静かだった。
ユリウスは私の方を見た。
その赤い瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「……一緒に行こう」
たったそれだけ。
けれど、心の奥に重く響いた。
(私と、ユリウスと……ユーフェミア様)
とうとう向き合う時が来たのだと思った。
「……ええ」
逃げないと決めたから。
私は、しっかりと頷いた。
ユリウスは微かに息を吐いた。
そして、私の手を取った。
「……俺も、一緒に背負うつもりだ」
その言葉が、胸の奥にふっと染み渡る。
(大丈夫)
きっと、大丈夫。
私は、もう“あの頃”とは違うから。
私は静かに、ユリウスの手を握り返した。
こうして私たちは、ノクテリア辺境伯邸へ向かう準備を始めた。




