67、ただいまと、届かない熱
エルフォード侯爵家に到着した。
(帰ってきたんだ……)
逃げないって決めてから見る景色は、なんだか少しだけ柔らかく、温かく感じられた。
馬車の扉が静かに開くと、ユリウスが差し出す手をそっと取る。
彼にエスコートされながら降りると、足元の冷たい大地が肌に触れた。
その瞬間、自然とユリウスが私の腰に手を回し、ぎゅっと引き寄せる。
彼の瞳が私をまっすぐに見つめているのがわかる。
以前とは違う――熱を帯びて、優しくて、まるで包み込むような眼差し。
胸の奥がじんわりとあたたかくなって、なんだかくすぐったくて、思わず顔が少し赤くなる。
「帰ってきたな」
ユリウスが微笑んで、少しだけ囁くように言った。
「うん、ただいま」
私も自然に笑みを返す。
「……おかえり」
彼のその言葉が、まるで温かな光になって心に染み渡った。
屋敷に戻ると、ふと、以前とは空気が違う気がした。
前は――みんな、私に怯えていた。
目を合わせるのも恐る恐るで、笑顔を向けてくれることなんて、ほとんどなかった。
でも今日は違う。
「奥様、おかえりなさいませ」
「お戻りをお待ちしておりました」
使用人たちは柔らかく微笑み、静かに頭を下げた。
その表情に、あの頃の警戒心は感じられなかった。
(……変わったのは、私だけじゃないのかもしれない)
心の奥がじんわりと温かくなる。
「ただいま」
自然に、口からその言葉がこぼれた。
優しい微笑みと「おかえりなさい」の声が、静かに心に染み渡っていく。
(……帰ってきたんだ)
そう思った瞬間、張りつめていた心がふっと緩んだ。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
***
夜になった。
薄暗い寝室。
蝋燭の揺れる灯りが、天蓋の布をぼんやりと照らしている。
心は静かだった。
もう、逃げるつもりはない。
(私はもう、戻らない。前に進むと決めたから)
けれど、布団の中でひとりになると、ほんの少し胸の奥がざわつく。
それは後ろ向きな恐怖じゃない。ただ、まだ慣れない新しい自分に戸惑っているだけ。
そのとき、扉がノックされた。
「……俺だ。入るぞ」
低い声。ユリウスだった。
「……ええ」
答えると、ユリウスは静かに扉を開けて、私のもとへ来た。
その瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
赤い瞳――けれど、そこにあるのは怒りや支配じゃない。
熱と、焦がれるような優しさだった。
「今夜は……一緒に寝てもいいか?」
言葉は穏やかだった。けれど、目は嘘をつけない。
彼の奥底には、抑えきれない何かが渦巻いている。
(ユリウス……)
私は静かに頷いた。
ベッドに入ると、ユリウスの腕が私を抱き寄せた。
ぐっと、強く。
けれど痛くはない。ただ、壊れ物を抱くみたいに、慎重に。
「……あったかいな」
耳元で、かすれるような声がした。
「ユリウス……」
名前を呼ぶと、彼の腕がさらにきつくなる。
熱が、肌から肌へと伝わる。
けれど、唇は触れない。指も、どこにも這わせない。
ただ抱きしめるだけ。
それがどれだけ重い行為か、わかっていた。
「ミレイナ……」
彼の吐息が、私の首筋に落ちる。
それだけで心臓が跳ねた。
触れてほしいわけじゃない。
でも――この距離のまま、夜が明けるのは、少しだけ寂しい。
(……キスも、してこないの?)
ふと、そんな思いが胸をかすめた。
そんなわがままを言えずにいると、彼の手が、そっと私の頬に触れた。
「……いいか?」
囁かれたその声に、私は小さく頷いた。
次の瞬間、唇が重なる。
ゆっくりと、確かめるように。
熱を伝えるだけの、静かなキスだった。
けれど、そこにはいくつもの感情が込められていた。
名残惜しそうに唇が離れたあと、ユリウスは私をもう一度、強く抱き寄せた。
「おやすみ」
低く、かすれた声。
「……おやすみなさい」
そう返したのに、眠るのが惜しいと思ってしまった。
静かな夜だった。
けれどその静けさは、孤独ではなかった。
ただ――ほんの少し、物足りなさと、安心が混ざり合うような、そんな夜だった。
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