50、素直すぎた少女
窓の外では、空の色がゆっくりと深く沈んでいく。
部屋の中に沈黙が満ちて、ふたりの間にも、しばし言葉はなかった。
沈黙のなか、レオナルドがふと視線を窓に向ける。
「……おまえは、幼い頃、身体が弱かったんだよ」
その声に、ミレイナはゆっくりと兄の顔を見る。
「生まれてすぐ、何度も高熱を出して……そのたびに、父上も母上も、夜通し付きっきりで看病していた」
そこで言葉を切り、兄は少し懐かしそうに笑った。
「ようやく、お前が笑った日には、使用人たちまで泣いていたよ。……それくらい、みんな、気を張っていた」
(そんなことが……あったんだ)
ミレイナの胸の奥が、じんわりと温かく、そして苦しくなる。
「その後、成長するにつれて、体も丈夫になって……好きなことも、外に出ることも、できるようになった。
でも、それでも――両親にとっては、ずっと“守らなきゃならない子ども”だったんだと思う」
レオナルドの声が、どこか遠くを見つめているように続く。
「今まで我慢させてきた分、これからはなんでも叶えてやりたい。……たぶん、父上も母上も、そう思ってる。
“してやれなかった分”を埋めるように、な」
その言葉は、ミレイナの中に引っかかっていた違和感を、優しくなぞるようだった。
(私は……あの人たちにとって、“自由にしていい”存在なんじゃなくて、“自由にさせてあげたい”存在だったのかもしれない)
そこにはたしかに、愛があった。
心から私を思ってくれる気持ちがあった。
でも、それが優しさとしてではなく、「かつての償い」として注がれていたとしたら――
どうしてだろう、それが、とても苦しく感じられた。
(そんなふうに、大切にされていたことに……感謝してる。でも、だからこそ)
言葉にできない何かが、胸の奥に溜まっていく。
――甘やかされるほどに、どこかで自分が“閉じ込められていく”気がする。
「......苦しいわ、お兄さま」
ぽつりと、ミレイナが呟く。
声は震えていなかったけれど、その奥にある心の揺れは、確かに滲んでいた。
「大切にされていたって、ちゃんと分かってる。愛されてたことも理解してる。
でも......それで、なんでも許されていいの......?」
レオナルドは、静かにその言葉を受け止めていた。
「……ありがとうって、思ってる。思ってるけど……」
ミレイナはそこで言葉を切り、膝の上に指先をぎゅっと握りしめる。
「間違ってなんかいないさ。……それは、正しい感情だよ」
レオナルドの声音は、いつになく穏やかで優しかった。
「俺もずっと、歯痒く思ってたんだ。
なんでも与えられて、なんでも許されて……それを当然としているお前を見るのが、正直、苦しかった」
少し視線を伏せて、ゆっくり言葉を継ぐ。
「でも、今はわかる。お前は、何も変わってない。
本当はずっと――ただ、素直すぎたんだよ。
両親から与えられる世界しか知らなかったから、それが普通だと思ってた。それだけなんだ」
そう言って、レオナルドはまっすぐミレイナを見る。
「でも今のお前は、記憶を失ってもちゃんと自分で考えてる。
迷って、戸惑って、それでも……ちゃんと、自分の足で立とうとしてる」
「本来のお前が、ようやく顔を出してくれたんだと、俺は思ってる」
「......俺は、そう思ってるよ」
兄の言葉に、胸の奥がわずかに温かくなる。
けれど同時に――
どこか奥深くに、冷たく沈殿した“自分自身”の影が、微かにうごめく気がした。
次回、第51話「ミレイナ・エルフォード」




