43、罪と赦しの交差点
ユリウスは、ミレイナの手を引きながら、頭の中で渦巻く思考を必死に整理しようとしていた。
――あれは、たった一週間前のこと。
ユーフェミアから、一本の手紙が届いた。
《お久しぶりです、ユリウス様。少しお話ししたいことがございます。夫と共に、そちらへ伺いたいのです》
ユーフェミア――かつての婚約者。
今はヴァレンティス辺境伯家に嫁いだ、過去の人。
その名を見るたびに、胸の奥に鋭い痛みが走る。
今の俺は、ミレイナに心を傾けている。
それはもう、抗いようもなく――確かな気持ちだった。
けれど同時に、それはかつて想い合った彼女――ユーフェミアへの、裏切りのようにも思えた。
過去を清算しきれないまま、新しい感情に手を伸ばそうとしている自分が、情けなかった。
そんな折に届いた、ユーフェミアからの手紙。
面会を望むというその文面に、俺の胸はざわついた。
(……なぜ、今になって)
けれど、彼女が夫とともに来ると知ったとき――ふと、思ってしまったのだ。
ああ、ならば。
彼女が本当に幸せに暮らしていると、自分の目で確かめられたなら。
そうすれば、この胸の罪悪感も、少しは和らぐのではないかと。
――そんな、身勝手な安心のために、俺は彼女と会うことにしたのだ。
ミレイナを見ていると、ユーフェミアとの思い出が霞んでいく。
それすら、ひどく冷たいことのように思えて――
ただ、無言で自分を責めるしかなかった。
***
ユーフェミアとの再会は、静かに訪れた。
ミレイナには、二人が訪れることは伝えていない。
会わせるべきではないと、そう判断したからだ。
彼女にとって、あまりにも大きな衝撃になる――それが分かっていた。
だから、屋敷中には厳命を下し、極力ミレイナの耳に入らぬよう手配した。
それに、何よりもミレイナを守りたかった。
だが、同時に――
ユーフェミアの気持ちも、少しだけ分かる気がした。
手紙に綴られていたのは、たった一文の面会の願いだけ。
それでも彼女の筆跡からは、抑えきれない何かが滲んでいたように思える。
……もしかしたら、彼女もまた、胸に残ったままの“過去”と向き合おうとしているのかもしれない。
そんな思いを抱えながら、俺は――彼女の前に立っていた。
「お久しぶりですね、ユリウス様」
ユーフェミアは微笑みながら、けれどどこか張りつめた声音で挨拶をした。
その笑みの奥には、いくつもの感情が折り重なっている――そんな気がして、ユリウスは一瞬だけ返す言葉を迷った。
「こちらが夫のアレクシス・ノクテリアです」
紹介の言葉に応じて、隣に立つ男が一歩前へ出る。
燃えるような赤髪を短く整えた青年――アレクシスは、すっと背筋を伸ばし、落ち着いた所作で一礼した。
鍛え抜かれた体つきは軍服の上からでもはっきりとわかった。
隠しようのない自信と気品がその立ち姿から自然と滲み出ている。
そして何より、金色の瞳が印象的だった。
陽光を思わせるその輝きは、どこまでもまっすぐで、嘘のない清々しさに満ちている。
ただ立っているだけで、周囲の空気を明るく照らすような、爽やかで誠実な空気を纏った男だった。
「お目にかかれて光栄です、エルフォード侯爵」
その声も、よく通る穏やかなもので、余計な威圧感もなければ、媚びもない。
まるでユーフェミアを自然と守る陽の盾――そんな印象を抱かせる人物だった。
数分間、当たり障りのない言葉が交わされる。
だが空気はどこかよそよそしく、三人の間には踏み込めない距離が残っていた。
そして――
「……ミレイナ様が、記憶喪失だと聞きました」
ユーフェミアがふいに切り出した言葉に、空気が一瞬、静止する。
「……本当ですか?」
ユリウスは、軽く息を吐いてから、短く答えた。
「……ああ、そのようだ」
言葉に出した途端、胸の奥に鈍い痛みが走る。
思ったよりも冷静に答えてしまったことに、どこか罪悪感すら覚えた。
「……とても信じられません。過去を思うと……」
ユーフェミアはゆっくりと目を伏せる。
長い睫毛が影を落とし、沈んだ表情を隠した。
「……一度、ミレイナ様とお話しできないでしょうか?」
その言葉に、俺は息を詰まらせた。
声が出なかった。けれど、彼女の願いの重さは痛いほどに伝わってきた。
ユーフェミアの気持ちは、わかる。
俺だって、かつてのミレイナを完全に許したわけじゃない。
でも――今の彼女が、ユーフェミアと再会したら。
あまりにも強い衝撃を受ける。それは想像に難くない。
俺の中で、「守りたい」という感情が膨れ上がる。
けれど……それでも、彼女の気持ちを否定することはできなかった。
ミレイナが過去に罪を犯したのは事実。そしてユーフェミアは、その被害者だ。
俺には、止める権利など――ない。
けれど、口が開かない。
答えをためらう俺の様子を見て、ユーフェミアはそっと微笑んだ。
「……ユリウス様。あんなことがありましたが、私は今、幸せです」
「本音を言えば、罪悪感もあるのです。……私だけが、こうして幸せになっていいのかと」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
罪悪感。それは、俺だけが抱いているものではなかった。
「……見極めさせてください。今のミレイナ様を」
真っ直ぐなまなざしだった。恨みでも憐れみでもない。ただ、過去を超えて向き合おうとする意志。
そのまっすぐさに――俺は、敗北したような気持ちで、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。許可しよう」
(……これが、正しい判断だったのかどうかは――まだ、わからない)
次回も引き続きユリウス視点です!




