42、その嘘に、触れられない
「……なにをしている?」
低く、鋭い声が背後から響いた。
ミレイナがびくりと肩を跳ねさせて振り向く。
月明かりの下――
木立の奥からゆっくりと現れたのは、漆黒の礼服を纏い、紅の瞳を光らせたユリウスだった。
彼の表情は静まり返っていた。
けれどその沈黙には、凍りついたような怒りが潜んでいた。
視線が、まずミレイナを見て、それからすぐに隣にいるリシュアンを射抜くように向けられる。
(まずい……!)
ミレイナは、思わずリシュアンの前に立つようにして歩を進めた。
「――何もしてないわ」
すっと、すくい上げるような声が漏れた。
「ただ、私が……迷っていただけよ。王宮の裏庭で道に迷って、川辺まで出てしまって」
自分でも、苦しい嘘だと思った。
けれど、嘘をつくことにためらいはなかった。
――リシュアンは、今回何もしていない。
むしろ、危険な状況だった私を助けてくれたのだ。
ここでユリウスに誤解されれば、きっと彼はまた責められる。
(それだけは、絶対に嫌だった)
「リシュアン様は偶然通りかかって、私を見つけてくれたの。それで……少し、話して……」
一拍置き、微笑むように言葉を継ぐ。
「疲れていたから……ただ、それだけ。ほんの少し、休んでいただけよ」
リシュアンが、小さく息を呑んだ。
彼女の言葉に、驚いたように目を瞬かせ、何か言いかけて――やめた。
その横顔には、戸惑いと、どこか温かなものが入り混じっていた。
ユリウスは、何も言わずにミレイナの瞳を見つめていた。
そのまなざしには、感情を映さない静けさがあった。
(……嘘だと、気づいているのね)
そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
彼は、そんな話を鵜呑みにするような人ではない。
きっと、もうとっくに察している。
それでも、ユリウスは言葉を発しなかった。
ただ黙って、ミレイナを見つめるその瞳が、一瞬だけ揺れた気がする。
(どうして……何も言わないの?)
問いかけそうになった唇を、そっと噛みしめる。
彼の顔には怒りも困惑も浮かんでいない。
けれど、その瞳の奥には、耐え難い何かを抱え込んだような、苦しそうな影が揺れていた。
それが、ミレイナの胸をさらに締めつける。
ユリウスの視線が、リシュアンへと向けられる。
その横顔には、ただ冷たいまでの静けさが宿っていた。
「……帰るぞ」
低く落とされたその声は、何よりも強い意志を帯びていた。
それ以上、何も言わせる余地などないほどに。
ユリウスは、それだけを告げると、そっとミレイナの手首を取る。
その手は冷たくて、でも乱暴ではなかった。
ただ、どうしようもなく――強引だった。
ミレイナは振り返る。
夜の光の中、リシュアンはその場に立ったまま、何も言わず彼女を見送っていた。
その眼差しは、どこか諦めたようで、けれどほんの少しだけ――優しかった。
(……ごめんなさい)
心の中でだけ呟いて、ミレイナは何も言わず、ユリウスのあとに続いて歩き出した。
ただ、引かれるその手に、ほんの少しだけ力を込めて握り返した。
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