40、もし引き戻されなかったら
ドクン、と心臓が跳ねる。
視界が揺れて、世界が一瞬だけ遠ざかったように感じた。
ついこの前――
この人に、無理やり襲われかけた。
忘れようとしても、身体が覚えている。
全身に恐怖が、広がっていく。
ミレイナは反射的に数歩、後ずさった。
身体が強張る。喉がつまる。声が出ない。
あの夜の記憶が、頭の奥で警鐘のように鳴り響く。
リシュアンがはっと目を見開き、その場に立ち尽くす。
そして――
「……ごめん」
ぽつりと落ちたその一言に、ミレイナの目がわずかに揺れる。
「……あんなことをしておいて、こんなふうに近づいたら……怖いよね」
その声は、壊れそうなほど弱々しかった。
まるで、彼のほうが怯えているようだった。
(……え?)
あまりに意外で、ミレイナは目を見開く。
恐怖に追い立てられていた頭が、一瞬止まった。
リシュアンの顔は真っ青で、手もわずかに震えている。
睨んでくるでも、押し付けてくるでもなく――彼はただ、立ち尽くしていた。
(……怯えてる……?)
そう気づいた瞬間、ミレイナの胸の奥で、きつく巻きついていた恐怖がゆるんでいく。
押し寄せていた過去の記憶が、少しずつ霧のように薄れていく。
リシュアンが静かに口を開いた。
「でも……川辺に向かってく君の顔があまりに真っ青で……
そのまま放っておけなくて……」
「……え……?」
思わず視線を落とすと――足元が濡れていた。
(……濡れてる?)
いつの間に、こんなところまで……
私は――何をしていたの?
「……!」
言葉にならない息が漏れた。
急に胸がざわつく。
まるで、今になって怖さが襲いかかってきたようだった。
(わたし……このまま……川に入るつもりだった……?)
その考えがよぎった瞬間、全身が凍りつくような感覚に襲われた。
「……っ、ごめんなさい……私……無意識で……」
「……止めてくれて……ありがとう」
震える声で、やっとそれだけを伝えた。
「よかった……本当に……」
リシュアンの声には、心からの安堵と悔いがにじんでいた。
その表情を見たとき、ミレイナの中の何かが、すとんと落ち着いた。
(……この人、本当に心配してくれていたんだ)
そう思えた途端、緊張の糸がぷつんと切れた。
気が張っていたのだ。ずっと。あの後から、ずっと。
ふいに、視界が滲む。
「……っ、ごめん……!やっぱり怖かったよね……! 無事なのがわかったし、俺、もう戻るから!」
リシュアンが慌てて身を引こうとする。
「……違うの。……なんか、気を張ってたのが緩んじゃって……」
「……うまく言えないけど……私……」
言葉がうまく続かない。胸の奥が、ぐちゃぐちゃで。
「……ミレイナちゃん……」
リシュアンはそっと距離を詰め、静かに手を伸ばす。
驚かせないように、声も音も立てず、慎重に――
そして、そっと彼女の肩に手を添えた。
その手はあたたかくて、けれどどこか不器用な優しさに満ちていた。
「……泣いても、いいんだよ」
その一言に、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
ミレイナの肩が、小さく震える。
彼の胸元にそっと額を押しつけると、まるでそれを受け止めるように、温もりが寄り添ってきた。
言葉はなかった。
けれどその沈黙が、今は何よりも優しくて――ただ、泣いた。
リシュアンも物語に大きく関わっていきます




