38、これは罰ですか、それとも
灰桜色の髪が、光を受けて揺れている。
深いブラウンの瞳がまっすぐにミレイナを見つめていた。
「……ユーフェミア様」
名を口にした瞬間、心臓が跳ねる。
かつて、自らの手で“辺境”に追いやった女性。
――ユリウスの、元婚約者。
喉が詰まりそうになる。どうして、こんなにも。
足元が、わずかにふらついた。
「……少し、外に出ませんか?」
その声はあくまで静かだった。けれど否応なく、拒否できない力があった。
「……ええ」
微かに震える声で、ミレイナは応える。
広間を離れ、王宮の中庭へ。夜風が噴水の水面を揺らす静かな場所。
二人きりになった瞬間、沈黙が落ちた。
けれど、ユーフェミアはすぐに口を開く。
「……不思議ですね。これじゃあ、前と立場が逆みたい」
その横顔は、どこまでも冷静だった。
「昔は、私があなたを恐れていた。けれど今は……あなたが、私を怖がっている」
ぐっと、喉の奥が詰まる。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。
――でも。
「……ご、ごめんなさい……」
搾り出すようにそう言ったミレイナを、ユーフェミアはじっと見つめた。
その目に、怒りはなかった。ただ、どこまでも深い感情が潜んでいるように思えた。
「噂で聞きました。……記憶喪失になったと」
ミレイナは目を伏せる。
噂――そう、王都にはもう広まっているのだろう。
「正直、最初は信じていませんでした。嘘だと思ってたんです」
そして、続いたのは静かな呟き。
「でも今なら、わかります。……本当に、何も覚えていないのですね」
言葉の端々に、微かな哀しみがにじむ。
そして、ひとつため息をついて、ユーフェミアはぽつりと呟いた。
「……これじゃ私が、いじめてるみたいじゃないですか」
そう言った彼女の微笑みは、どこか寂しげだった。
責めているわけじゃない。でも、赦しているとも言えない。
(……そうだ。私……この人の人生を、壊したんだ)
(謝ったって、戻らない。記憶がないなんて――それが、どれほど残酷か)
(……いっそ、罰してほしいのに……)
何も言えずに、ミレイナはただ、小さく唇を噛んだ。
目の前のユーフェミアは、ただ静かに笑っていた。
けれどその笑みの奥には、決して消えない傷跡のような影があった。
「……本当なら、責めるつもりで来たんです」
ユーフェミアは噴水の縁に指先をそっと触れ、冷たい石の感触を確かめるように目を伏せた。
「でも……あなたを見た瞬間、それが全部、どうでもよくなった」
「……え……?」
「……かわいそう、って。そう思ってしまったの。おかしいですよね、私」
自嘲するようにかすかに笑うその声は、どこまでも優しくて――けれど、突き放されるようだった。
だからこそ、ミレイナは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「記憶をなくしたあなたを赦すかどうか……私自身も、まだ答えが出せていません」
そう言って、ユーフェミアはふとミレイナのほうを見た。
ブラウンの瞳が、まっすぐに揺れることなく、彼女を捉えていた。
「……ああ、そういえば」
小さく息を吐いて、ユーフェミアは噴水に視線を落とした。
まるで、ここからは少し違う話をする、とでも言うように。
「……ユリウス様と、先日お会いしましたの」
その一言が落ちた瞬間――
ミレイナの胸の奥に、冷たい針が突き刺さる。
「……えっ……」
小さく息を呑んだ音が、夜の静寂に溶けた。
なぜだろう。
たったそれだけの言葉なのに。
体の奥から、ひやりとしたものが這い上がってくる。
(ユリウスが……ユーフェミア様と……?)
嫌な想像が、脳裏にじわりと広がっていく。
知らない顔をしている彼、私の知らない彼――
そんなものを、あの人は見たのだろうか。
「あなたのこと、少しだけお話しました」
でも、それ以上の言葉がもう聞こえなかった。
「……“今のあなた”のことを、とても大切にされているようでしたよ」
耳には届いていた。けれど、心には入ってこなかった。
脳裏でこだまするのは、最初の言葉――「少し前に、ユリウス様とお会いしました」
それだけが、ぐるぐると頭の中で反響していた。
「昔とは、ずいぶん印象が違って……」
そこで、ユーフェミアは目を細めた。
まるで過去と現在を静かに見比べているように。
「……それが、少しだけ……怖いくらいに、ね」
そして――
「でも、ひとつだけ……忠告をしてもいいですか?」
聞きたくない――そう思ったはずなのに、体は逆らえなかった。
小さく、けれど確かに、ミレイナは頷いていた。
ユーフェミアは少しだけ歩み寄り、耳元に静かに囁く。
「――その人の愛が、どこまでも純粋だとは、限らないわ」
その一言に、呼吸が止まった気がした。
まるで、喉の奥に冷たい刃を突き立てられたような、そんな感覚。
思わず肩が震え、ミレイナはその場に立ち尽くした。
「それじゃあ、失礼します」
ユーフェミアは微笑んだままくるりと背を向ける。
ドレスの裾がすべるように揺れて、月光の下、噴水の影と重なる。
その背中から――一切の感情が読み取れなかった。
(……その人の、愛……?)
心の奥が、不穏に揺れる。
ユリウスのあたたかい手が、突然、冷たく感じた気がした。
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