35、嵐の予感
建国祭の朝、屋敷はいつになく慌ただしかった。
侍女たちが駆け回り、花の飾りを手に廊下を行き来している。正装用の衣装が並べられ、香油の香りが部屋の隅にまで漂っていた。
(……ああ、本当に今日なのね)
鏡の前で、ミレイナはそっと指を重ねる。薄桃色のドレスは祭礼用に仕立てられたもので、袖口に繊細な金糸が縫い込まれている。
髪はきちんと結い上げられ、耳元には淡い宝石のイヤリング。侍女が「よくお似合いです」と言って微笑んだけれど、その言葉も遠くに聞こえた。
(祭りなのに……心が重い)
午前十時――王宮へ向かう馬車の扉が開かれた。
ユリウスはすでに正装を終えていて、無言でミレイナに手を差し伸べた。その手を取った瞬間、微かな安堵が胸をかすめる。
馬車が石畳の上を進むにつれて、王都の空気は一層熱を帯びていった。
建物には旗が掲げられ、店先には記念の装飾。
通りすがる市民たちが笑顔で祝福の言葉を交わし、遠くから太鼓と笛の音が聞こえてくる。
......ここでユリウスのかつての婚約者に逢うことになるのだろうか。
辺境伯家。正妻。ユーフェミア。
過去の自分がその縁を結ばせたという、その女性。
(覚えていない。でも……きっと、避けては通れない)
王宮前広場は、すでに華やかな熱気に包まれていた。
各地から集まった貴族たちが、絢爛な衣装をまとって談笑し、音楽隊が軽やかに祝祭の調べを奏でる。
やがて到着した王宮前広場。
人々のざわめきがふと止み、ひとつの馬車に注目が集まった。
白銀にきらめくドレスの裾がゆっくりと揺れる。
灰桜色に揺れる髪。その淡くやさしい色合いは、けれどどこか、冷ややかな印象も帯びていた。
深みのあるブラウンの瞳が、周囲をゆるやかに見渡している。
(あの人……)
ミレイナの胸が、きゅうと締めつけられた。
笑っている。けれどその笑みの奥には、こちらを見透かすような、冷たい光が宿っていた気がした。
……ただ、美しいというだけでは片づけられない、そんな気配を纏っていた。
周囲のざわめきが、どこか遠くで響いている。
彼女の名を、まだ知らない。
けれど――わかった。
(……ユーフェミア)
そして、この日。
王都の祝祭の熱気の中で、再び物語の歯車が音を立てて動き出した。
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