30、あなたを、好きになってしまう
静寂の中、雨音だけが絶え間なく続いていた。
外はまだ夜で、小屋の中も、ぬるい暗がりに包まれている。
カーテンの代わりに垂れた薄布が、外の光をやわらかく遮っていた。
ユリウスの腕の中、体はまだ熱を残し、胸も下腹部も、かすかに疼いている。
きつく抱かれた痕が、肌に、心に、残っていた。
どこを触れられても、自分のすべてが彼に晒されたような気がして――羞恥と、それ以上の安心が胸に広がっていた。
(あんなに怖かったのに……)
彼の手に、声に、体がほどけていった。
乱れた呼吸の合間に、何度も名前を呼び、何度も応えた。
その一つ一つが、
私の奥底にあった不安や罪悪感さえ、一瞬だけ消し去ってくれた。
――このときだけは、何も考えられなかった。
過去も、未来も、私が何者かさえも。
ユリウスの熱と腕の中だけがすべてだった。
(あの人のことしか、見えなくなっていた……)
……それが、いちばん怖い。
彼に触れられたことで、心が少し楽になった気がする。
でも同時に、もう戻れない場所に踏み込んでしまったことも、理解していた。
――また、好きになってしまう。
ずっと怖かったはずなのに。
あんな夢を見て、自分を怖いとまで思ったのに。
それなのに私は――
「……起きてるのか」
低く囁くような声が、頭上から落ちてくる。
ユリウスが、私の髪にそっと唇を落とした。
「……ごめんなさい」
そう、思わず言ってしまっていた。
彼はしばらく何も言わず、ただ私を見つめていた。
その視線は深くて、冷たくて、でもどこか痛々しい。
やがて、ゆっくりと声が漏れる。
「どうして謝る?」
「わからない。でも……ごめんなさい。私、また、あなたを……」
言葉が喉の奥で詰まった。
どうしても最後まで言えなかった。
その続きを口にしてしまえば、私はもう――戻れない。
下を向いたまま、目を閉じる。
怖くて、彼の顔を見られなかった。
「……ミレイナ」
ユリウスが、低く名前を呼ぶ。
その声に、無意識に肩が震える。
ゆっくりと顔を上げた。
――その瞬間、視線が絡んだ。
暗がりの中でもはっきりとわかる。
彼の赤い瞳が、熱を孕んでじっと私を射抜いていた。
表情は読み取れない。
けれど、目だけが――まるで獲物を逃がすまいとする獣のようだった。
怖いほど真剣で、執着の色が滲んでいる。
(どうして、そんな目で……)
私は思わず息を飲んだ。
彼の手が、そっと私の背にまわされる。
でもその動きは、優しさというより――確かめるような、囲い込むような強さだった。
指先が私の背中を這うたびに、心がどくどくと高鳴る。
「……何度謝られても、たぶん許しきれない。許すために、ここにいるんじゃないから」
彼の睫毛が、ほんの少しだけ震えた気がした。
「だけど……君の泣き顔ひとつで、全部どうでもよくなる」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
やさしいのに、逃げ場がない。
心の奥をやさしく掴まれて、そのまま離してもらえない気がした。
だから私は、思わず口にしていた。
「……そういう言葉が、一番……怖いのよ」
「……どうして」
「だって……そんなふうにされたら、私……本当に、あなたを好きになってしまう」
言い終えた瞬間、ユリウスの身体がわずかに強張った。
それは、呼吸の間に感じたわずかな震え。
私を抱く腕の温度が、ふっと熱を帯びた気がした。
(――あ)
気づけば、彼の指先がそっと動いた。
ためらいがちに私の頬に触れ、指先で髪を払うように撫でる。
その仕草は静かで、でも確かに――何かを確かめるようだった。
ゆっくりと、私の顔を覗き込む。
その瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
赤い眼差しは、いつもより少しだけ揺れていて、
けれど、底のほうには決して消えない熱が残っていた。
「それが……いけないことか?」
声は低く、少しかすれていた。
まるで、触れたら壊れてしまいそうなものを前にしたときのように――慎重で、切実で、そして……どこまでも真っ直ぐだった。
私の胸が、ずきりと鳴った。
(わからない。正しいのか、間違いなのか。
でも……こんなふうに彼の腕の中にいる私は、確かに“幸せ”だと思ってしまってる)
その気持ちが――一番、怖かった。
「ユリウス……」
名前を呼ぶと、彼はまた、私を抱きしめた。
先ほどまでの激情とは違う、静かで、深い抱擁。
ふたりの間に、言葉がなくなる。
ただ、肌の熱と、胸の震えだけがそこにあった。
窓の外で、雨がまだ降っていた。
夜はまだ終わらない。
でも確かに、朝は少しずつ、近づいている。
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