2、私は何をしたの?
「……冗談はやめてくれ、ミレイナ」
「君の嘘にはもう飽きた。次はどんな芝居をして俺を縛る気だ?」
低く押し殺したような声だった。
......信じてもらえない。
私は、この人に何かしたの......?
でも、今言っていることは、事実。嘘じゃない。
「冗談ではありません。……"ミレイナ"って、誰ですか?」
静かな沈黙が落ちた。
男の目が見開かれる。赤い瞳に浮かぶのは、混乱と、信じがたいものを目にした人間の驚愕。
部屋の隅で控えていた使用人たちが、一斉に息を呑むのが聞こえる。
空気が凍りついたような気がした。
「……目覚めたばかりだ。ひとまず診察を受けてくれ」
絞り出すように、男は言う。
その声に込められた怒気は薄れ、どこか――脆く、掴みどころのない響きをしていた。
***
医師の診察が終わる頃には、日が少し傾き始めていた。
「……記憶喪失のようです。強い衝撃や、精神的ショックによるものかと」
医師が低く静かな声でそう告げたとき、私はただ、布団の中で膝を抱えるように座っていた。
“記憶喪失”――確かに、その言葉は今の私にぴったりだった。何も思い出せない。すべてが空白のまま。
名前を呼ばれても、それが自分のことだと思えない。何もかもが他人事のようだった。
すると、扉の外から駆け寄る足音が聞こえ、勢いよく部屋の扉が開いた。
「ミレイナ……!!」
駆け込んできた女性が、私の名を呼んで飛びつくように抱きしめてきた。
香水ではない、上品な花の香りがふわりと鼻先をかすめる。
細く華奢な体を震わせ、女性は大粒の涙が私の肩を濡らした。
……誰?
けれどその目元には細いしわがあり、泣き崩れる顔には私とどこか似た面影があった。
その後ろから現れた男性も、静かに私の隣にひざまずく。
こめかみに白いものを混じらせた髪と整った髭、厳格な中にも優しげな眼差し。
「ミレイナ……目を覚ましたと聞いて、すぐに来たよ。無事でよかった……」
私を抱く腕に、声に、愛情がこもっている。
ふたりとも、私の両親――なのだろうか。
あたたかい声で、泣きながら私の名を呼ぶ人たち。
彼らの表情に偽りはないように思えた。
けれど。
その名を呼ばれても、何も思い出せない。
彼らの顔にも、声にも、まったく見覚えはなかった。
さらに、今度はもうひとり、男が現れた。
「記憶喪失と聞いた。……本当なのか?」
低くよく通る声。背筋の伸びた若い男は、透き通るような白銀の髪と、冷静なまなざしを持っていた。
彼の顔を見た瞬間、私は一瞬言葉を失った。
私とよく似た顔立ち。まるで、男の自分を見ているような錯覚さえ覚える。
「私は……あなたも、知らない……」
言葉がぽつりとこぼれ落ちた。
彼の眉がわずかに動く。疑念とも困惑ともつかない表情で、私を見つめ返していた。
「……レオナルド。彼はおまえの兄よ。私たちは家族なの」
「ミレイナ、おまえは“ヴァンデール公爵家”の娘で――今はユリウス君と結婚して、“エルフォード侯爵夫人”なのよ」
説明する声は優しくて、愛にあふれていた。
なのに――
私はただ、黙って彼らを見つめることしかできなかった。
先ほどまで、知らない人たちに囲まれて、私は……罪人みたいな目で見られていた。
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
この温かな言葉をかけてくれる両親?だけが、唯一――本当に私を心配してくれているように見えた。
けれどその愛情にさえ、応える言葉を持たない自分が、ひどく情けなかった。
私は一体、何をしたの?
なぜみんな、私にこんなにも――期待して、怯えて、傷ついているの?
私の中の“空白”が、じわじわと広がり、痛みすら感じた。