27、好きになってしまうのが、怖い
昨日の朝――
ユリウスと一緒に庭園を歩いたのは、ほんのひとときだったのに。
それだけで、心が波立ってしまった。
あのあと、私は部屋に引きこもったまま、誰とも顔を合わせる気になれなかった。
夢の中で見た“かつての自分”。
そして、ユリウスの優しさ。
それがあまりにかけ離れていて、どう向き合えばいいのか分からなかった。
療養のためにこの別荘に来てから、朝食は毎日ユリウスと一緒にとっていた。
けれど今朝は、声をかけられるまでずっと迷っていた。
顔を合わせることさえ、怖かったのに。
それでも私は食堂へ向かい、彼の向かいに座る。
「……体調は、どうだ?」
向かいに座るユリウスが、慎重に言葉を選ぶようにして訊ねた。
少しだけ目を伏せたままのその表情には、どこか遠慮が滲んでいた。
「今日は……湖にでも、行ってみないか?」
続く声は、どこか窺うようだった。
「もちろん、無理をするつもりはない。……体調がよければ、でいい」
私は、すぐには答えられなかった。
“このまま一緒にいれば、また何かが変わってしまうかもしれない”
そんな予感がして――少しだけ、息が詰まった。
前の自分に戻るのが、怖い。
離れた方がいいのは、分かっている。
ユリウスの優しさを、勘違いしてはいけないとも。
けれど――
「……ええ。ぜひ、行きたいわ」
気づけば、そう答えていた。
断る理由は、いくらでもあったはずなのに。
なのに、あの瞳で見つめられると、どうしても言えなかった。
こうして私は、ユリウスに誘われるまま、湖へと足を運んだ。
馬車の中。
車輪の音が静かに響く。窓の外を流れていく景色が、ただの影のようにぼやけて見えた。
隣に座るユリウスは、何も言わなかった。
私も、言葉が見つからなかった。
けれど、その沈黙は、どこか心地よくもあって――
互いに言葉を慎重に選んでいるような、そんな張りつめた空気だけが、車内を包んでいた。
ときどき、視線が交わる。
彼は何かを言いかけては、そっと飲み込むように目を伏せた。
その仕草に、私の胸もまた、きゅうっと締めつけられた。
馬車が止まると、扉が開かれる。
風の通り道になっている湖畔には、静かな水音が満ちていた。
ユリウスに誘われるまま、私は湖へと足を運んだ。
まだ胸の奥のざわつきは消えていなかったけれど、不思議と拒む気にはなれなかった。
「……綺麗ね」
湖面を渡る風が、髪をそっと撫でる。
あの夢を見たあとでも、こうして自然の中にいると、ほんの少しだけ心が解けていく気がした。
「よくここに来るんだ。……考え事をしたいときに、な」
ユリウスの横顔は穏やかだった。
私に向けられたものではなく、どこか遠くを見るような、少し寂しげな表情。
その優しさが、また――胸に刺さった。
「……ごめんなさい。こんなふうに、連れてきてもらえる資格なんて、私には……」
ぽつりと、思わず零れていた。
心の奥で、ずっとくすぶっていた罪悪感が、言葉になって滲み出た。
「……そんなに自分を責めるな」
ユリウスが、少しだけ声を落とす。
その声音に、迷いと……あたたかさが混じっていた。
「確かに、過去の君を……完全に許せているとは言えない。
けれど、今の君を“あの頃と同じ”だとも思えないんだ」
その言葉が、胸の奥に静かに響いた。
(そんなふうに――言われたら……)
気づけば、唇が震えていた。
感情が、堰を切ったようにあふれ出す。
「でも……でも……」
言いかけて、呼吸が詰まる。
目の奥が熱い。
「……そんなふうにされたら……」
心が、ひどく揺れていた。
その優しさにすがりたくて、それでも傷つけるのが怖くて――
「……また……」
喉が、きゅうっと痛む。
それでも、言わなければいけなかった。
「……好きになって、しまう……」
静寂が、湖畔に降りる。
「……!」
ユリウスが、驚いたように私を見る。
その赤い瞳が、かすかに揺れた。私は、それを見逃さなかった。
「怖いの……」
震える指で、自分の胸元を押さえた。
「また同じことを繰り返して……あなたを傷つけるのが、怖いの……」
その瞬間、そっと背中にぬくもりが触れた。
気づけば、ユリウスが私を――抱きしめていた。
「……もういい。何も言うな」
低く抑えた声が、耳元で囁かれる。
その腕は、決して強引ではなく、でも逃がさないと誓うように、私を包み込んでいた。
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