25、夢でみた女
散歩を終えたあと、私はひとり部屋に戻った。
昼の日差しは穏やかで、カーテン越しに差し込む光が床に淡く揺れている。
だけど、私の胸の内は――どうしようもなく、ざわついていた。
(どうして……あんなこと、してしまったんだろう)
無意識だった。気づいたら、ユリウスの腕に手を絡めていた。
あのとき、怖さなんてどこかに消えていた。
(私は……何をしてるの?)
あんなふうに距離を縮めてしまって――どうして、怖くなかったの?
あんなに怯えていたのに、なのに今は……
離れるのが、少しだけ――嫌だと思ってしまった。
胸が、苦しくなる。
(おかしいわ、私……)
記憶がないから、私がどんな過去を持っていたのか分からない。
でも、彼は私を恨んでいるはずで。
そして私も、彼のことが……怖かった、はずなのに。
なのに。
今日の彼は、優しかった。
何も言わずに歩幅を合わせて、私の手を――拒まなかった。
(……あれが、優しさだったのなら)
私の知らない彼は、本当は――こんな人だったの?
それとも、違う。
彼は過去を忘れた私に、ただ「別の顔」を見せているだけなの?
分からなかった。
でも、確かなのはひとつだけ。
――私は今、確かに。
あの人の隣が、少しだけ……心地よく思えてしまった。
それが、怖い。
心が少しずつ、彼に傾きかけていることが――何よりも、怖かった。
***
その夜――私は夢を見た。
鏡のような静寂の中、私がいた。
けれどそれは、今の“私”ではなかった。
背筋を伸ばし、高慢な笑みを浮かべ、周囲を見下ろすような目。
周囲にいた人々が怯え、遠巻きにしているのに、彼女――私は、それを当然のように受け止めていた。
「ユリウスは、私のものよ」
そう言い放った声は、冷たくて――狂気じみていた。
彼にすがるように抱きつき、頬を撫で、他の誰かが近づこうとすると、平気で罵声を浴びせる。
泣いていた少女の手から手紙を取り上げ、ぐしゃりと握りつぶした。
「こんなもの、見せびらかして――いい気になってるつもり?」
彼女の存在が周囲の注目を集めていたことが、どうしても気に入らなかった。
噂をひとつ、流した。
ほんの些細な悪意が、ゆっくりと彼女を追い詰めていくのを、私はどこか愉しんでいた。
満足げに微笑む“私”の顔が、鏡のように目の前に浮かぶ。
その笑顔は――あまりにも、醜かった。
(あれは……)
誰?
……いいえ、わかってる。
あれは――私。
“記憶を失う前の、私”だった。
「嫌……」
その言葉が、夢の中でこぼれた瞬間、私は目を覚ました。
部屋の中は、まだ夜の闇に包まれていた。
静かすぎるほどに、静かだった。
けれど、私の心臓は早鐘のように打ち鳴っていた。
(……あれが、本当に……私?)
理解したくなかった。
でも、どこかで確信していた。あれは演技でも幻でもない――紛れもなく、私自身の姿だった。
(私は……ユリウスに執着して、周りが見えなくなって……)
(平気で、誰かを傷つけた)
(――そんな女だった)
吐き気がするほど、怖かった。
今、私はユリウスに少しずつ心を開きはじめている。
あの人の声が優しいと感じて、隣にいると安心できて――
でも、それはつまり。
同じ道を、また歩きはじめているということなのかもしれない。
(私がまた、彼に依存して、周囲を傷つけるような人間になったら……)
(自分で、自分が……恐ろしい)
シーツをぎゅっと握りしめる。
胸の奥が冷たく震える。
(こんな私を、ユリウスが本当に……許すはずがない)
でも、もし彼がまた、手を伸ばしてくれたら――
きっと私は、それを拒めない。
そんな自分が一番、怖かった。




