23、怒りは、救いだった
療養先への出発を控えた朝。
控えめな日差しが差し込む部屋の中で、私は侍女の手を借りながら荷造りをしていた。
薄手のドレス、日記帳、文具、あまり派手でない髪飾り……
静かにトランクに詰めながら、昨夜のユリウスの言葉を思い出していた。
「……わかった。一緒に行こう、ミレイナ」
(あのとき、ユリウスの目が……優しかった)
胸の奥が少しだけ温かくなる。
こんな気持ちは久しぶりだった。いや――もしかすると、初めてかもしれない。
そのときだった。
開け放たれた扉の向こう――廊下の奥から、微かに声が聞こえてきた。
「ねえ……あの舞踏会の件、聞いた?」
「うん、見た人がいるんですって。奥様、男の人に――」
「抱きつかれてたって噂、やっぱり本当なんだ……」
「しかも旦那様とご一緒に療養されるとか……すごいわよね、記憶がなくても男心は離さないなんて」
「……そこまで来るとさ、本当に記憶がないのか、怪しいものだわ」
その瞬間、私の手から薄手のショールが、はらりと落ちた。
ぽとり――と軽い音を立てて床に沈む。
呼吸が、苦しい。
喉が急に渇き、背筋を冷たいものが這い上がる感覚に襲われた。
「奥様……?」
隣で荷物を整えていた侍女が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
けれど私は、何も答えられなかった。
(違う……私は、あの日……襲われて……)
必死で抗った。
あれは、そういうことじゃなかった――なのに。
(……また、私のせいで……ユリウスまで……)
ぐらりと、視界が歪む。
胸の奥が締めつけられ、足元から冷たい闇に飲み込まれそうになる。
――そのときだった。
「……何の話をしている?」
背筋が凍るような、低い声が、廊下に響いた。
私はハッと顔を上げる。
ドアの向こうに立つその気配に、空気が一瞬で変わったのを感じた。
「だ、旦那様……!」
慌てた声。続いて、布の擦れる音と何人かの足音。
跪いているのだと、すぐにわかった。
「そのような根拠のない噂を口にする者が……」
「……以後もこの屋敷で働けると思うな」
静かで、低い声。
怒号ではないのに、むしろ淡々としたその口調が――恐ろしく、そして冷たかった。
私はドアの陰でじっと身を潜めたまま、そのやりとりを聞いていた。
言葉ひとつひとつが、胸を刺す。
「……下がれ」
足音が、逃げるように去っていった。
沈黙が残る。重く、息苦しい沈黙が。
やがて、足音がこちらへ近づいてきて――そっと、扉が開いた。
「……ミレイナ」
その声は、さきほどまでの冷たいものではなかった。
静かで、穏やかで……私の心の奥に、優しく触れるような声音だった。
「……聞いていたか?」
私は俯いたまま、かすかに頷いた。
言葉が震え、上手く出てこない。
「……どうして……私のせいで……」
「なのに……どうして、怒ってくれるの……?」
ユリウスが少しだけ息を飲む気配がした。
それから、静かに近づき、私の前に膝をつく。
「君が……どれだけ自分を責めていようと、関係ない」
「俺は――」
一度だけ息をつき、言い淀んだあと、ゆっくりと続きを口にする。
「……君を守ると決めた。それだけだ」
ぽろりと涙がこぼれた。
こんなふうに、誰かの怒りが――自分の救いになる日が来るなんて、思ってもいなかった。
私はそっと彼の名を呼ぶ。
「……ユリウス」
名前を呼ぶと、ユリウスは何も言わず、そっと私の手を取った。
その手は、驚くほど――あたたかかった。
ただそれだけで、もう……泣きたくなるほどだった。




