19、心の乖離
馬車の中。
車輪の音が静かに響く。窓の外を流れていく夜景が、ただの影のようにぼやけて見えた。
私の視線は、何も映さないまま宙を彷徨っていた。
思考も、感情も、うまく働いてくれない。ただ、胸の奥で――何かが凍りついたままだった。
隣に座るユリウスが、ちらりとこちらを見る気配を感じる。
でも、私は顔を向けることができなかった。
屋敷に戻ってからも、頭はぼんやりと霞んだままだった。
けれど、ユリウスの声だけははっきりと届いた。
「……医師を呼んだ。安心していい。すぐに済む」
彼の声は静かだったけれど、どこか強くて――不思議と心に響いた。
やがて、扉がノックされ、医師が部屋へと入ってくる。
男性だった。
その瞬間、首筋に氷の刃が突き立てられたような恐怖が全身を駆け抜けた。
「いやっ……!」
「やめて、こないでっ……!」
悲鳴にも近い声が、勝手に口を突いて出た。
ベッドの隅へ、反射的に身体を逃がす。足がもつれ、心臓が暴れる。
医師が驚いて立ち尽くす中、ユリウスがすぐに割って入った。
「下がれ」
ユリウスの声が、低く、鋭く響く。
「もういい、……薬だけ、置いていけ」
その口調に、部屋の空気が一瞬で変わった。
命じられた医師は、ただうなずき、無言で退出する。
私はベッドの隅で、まだ震えていた。
そんな私の前に、ユリウスが静かにしゃがみ込む。
距離を取ったまま、そっと目線を合わせるように、柔らかな声で言った。
「怖くない。……今はもう、誰も君に触れない」
そう言って、彼は薬を手渡してくれた。
私の手が震えていたのを見て、一瞬だけ彼の眉が僅かに動いた気がした。
そのまま、私は震える指で薬を飲み、ゆっくりと横たわる。
意識が沈んでいく。暗闇に落ちる寸前、最後に聞こえたのは――
「……大丈夫。怖がらなくていい」
その声だった。
***
朝。微かな陽光が、薄く開いたカーテンの隙間から差し込んでいた。
目を開けると、すぐそばに人の気配があった。
黒い髪。広い背。
それを見た瞬間――また、全身が硬直する。
(だれ……?)
喉が乾いて痛い。指先は冷えきって震えていた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。そう思った。
「やだ……やめて、こないで……っ!」
私は、咄嗟に声を上げて身を引いた。
「ミレイナ!」
その声が、強く私を貫いた。
「ミレイナ、落ち着け……俺だ。ユリウスだ」
ユリウス……?
彼の顔を、ようやく認識する。
あの深紅の瞳。冷たく、けれど誰よりも私を知っている瞳。
「ユリウス……?」
「ああ、俺だ」
彼の声は低く、けれど優しく響く。
「大丈夫。ここは安全だ。誰も、君に触れない」
その言葉に、何かがふっとほどける気がした。
私は小さくうなずいて、唇を震わせる。
「……ありがとう」
けれどその瞬間、堪えていたものが崩れた。
ぽたり、と涙が頬に落ちる。
「あれ……なんで……?」
自分でもわからない。けれど止まらなかった。
「ごめんなさい……わたし……」
ユリウスは、黙って私に近づき、そっと手を伸ばした。
でも、私は――思わず、それを避けてしまった。
静寂が落ちる。
ユリウスの手が、空を掴んだまま止まった。
「……今日はもう、休め。無理に起きなくていい」
その声に宿った何かが、私の胸を締めつけた。
けれど、それが“悲しみ”なのか“怒り”なのか――私には、もうわからなかった。




