1、目覚めたのは――悪女?
どこか、遠くから誰かの声がする。
まぶたを閉じたまま、私はその音をぼんやりと聞いていた。
――奥様……?
ふ、と目が覚める。視界がぼやけて、天井がゆっくりと形を取り始めた。
重いまぶたを持ち上げると、傍らにいた若い女性が目を見開いた。
「……奥様、大丈夫ですか?」
奥様。
私のこと……?
そう問い返す暇もなく、もう一人のメイドが控えめに声をかけた。
「ご気分はいかがでしょうか、ミレイナ様」
表情は固く、目は合わない。
その声音に、心配というよりは――義務感のようなものが滲んでいた。
目を合わせようともしない態度に、微かな違和感が胸に残る。
部屋の中は静まり返っていた。誰一人として近寄ろうとはせず、私の顔色を窺っている。
まるで、野生の獣を警戒するような目で。
ふと、視線の先に置かれた鏡が目に入った。そこに映っていたのは――
透き通るような白銀の髪、白磁のように滑らかな肌、宝石のような碧い瞳。
自分でも息を呑むほど、儚く、非現実的な容姿だった。まるで、おとぎ話の中の妖精のよう。
でも――その鏡の中の少女は、まったく知らない顔だった。
どうして、自分の顔を見ているのに、こんなにも現実味がないの?
記憶が霧に包まれている。名前も、居場所も、昨日の出来事でさえ、何一つ思い出せない。
それなのに、私を見る周囲の目だけは、妙にはっきりしていた。
どこか恐れるような、忌避するような――まるで、私は「そこにいてはいけない存在」なのだと言わんばかりに。
けれど、鏡の中の碧い瞳が、どこまでも冷たく澄んでいて――
その奥に、何か取り返しのつかないものを隠している気がして、思わず目を逸らした。
胸の奥がじくじくと痛む。何も知らないはずの私が、なぜこんなに息苦しいの……?
怖い。誰も答えてくれない、この沈黙が怖い。
誰もが私を知っているように振る舞うのに、私は誰一人知らない。
この部屋にも、この空気にも、まるで見覚えがなかった。
「……ここは、どこ……?」
かすれた声が、自分でも気づかぬうちにこぼれた。
すると、扉が静かに開く音がした。
足音がゆっくりと近づいてくる。
「目覚めたようだな。......元気そうじゃないか」
姿を現した男は、冷ややかな声音でそう告げた。
夜の闇を思わせる漆黒の髪に、深紅の瞳。
整った顔立ちはまるで彫像のように美しく、それなのに、その目だけが異質だった。
――底のない怒りと、憎悪をたたえていた。
「……階段から落ちたのだって、どうせわざとだろう?」
その言葉は、刃のように胸を突いた。
けれど、言葉の意味がわからない。
「俺の気を引こうとするのはやめてくれ。もう、そういう茶番には付き合うつもりはない」
……え?
混乱が、一気に押し寄せた。
私が――階段から、落ちた?
そんな記憶は、ない。痛みもない。ただ、目覚めたら知らない天井で、知らない人たちに囲まれていて。
そして何よりも――
この人は、なぜ、そんな目で私を見るの?
冷たくて、怒っていて、突き放すような……
まるで、私の存在そのものが“罪”だとでも言うような視線――。
誰……? 誰なの、この人……?
「えっと……あなたは、どなた様、ですか?」
一瞬、沈黙が落ちた。
部屋の空気が凍る。
男の眉がわずかに動き、そして――
「……は?」
その一言だけで、部屋の温度がさらに下がったような気がした。
なぜ。
私が“この人”の顔を知らないことが――
こんなにも、大きな間違いだったみたいに思えるの……?