17、忠犬
数曲の舞が終わった頃だった。
音楽も喧騒も少し落ち着きを見せ始めたタイミングで、私はユリウスの袖をそっとつまんだ。
「少し、席を外してもいいかしら」
低く、控えめに囁く。
ユリウスは黙ったまま私に目を向け、短くうなずいた。
それだけで、許可が下りたことがわかった。
私は会場を後にし、ひとり、廊下を歩く。
シャンデリアの光が届かない、ほんの少しだけ静かな通路。赤絨毯が、足音を吸い込んでいく。
この夜会で初めてひとりになれた空間。
けれど、安心感はなかった。
胸の奥が、妙なざわつきを覚えている。
あの“視線”のせいだろうか。
先ほどから、ずっとどこかにまとわりつくような違和感が消えない。
(気のせいよ……落ち着いて)
自分にそう言い聞かせて、歩を進めたその時だった。
「やあ、久しぶり、ミレイナちゃん」
その声がした瞬間、背筋が凍りついた。
静寂の廊下に溶け込んでいた影から、男が姿を現す。
色素の薄い金髪、艶やかな微笑み。
けれどその紫の瞳には、爛れたような熱が宿っていた。
(……この人、知ってる。過去の、私が)
胸が騒ぎ出す。直感だけが、鋭く心を揺さぶる。
だけど、名前も、関係も、まるで思い出せない。
男は、少し肩を落として笑った。
「やっと、ひとりになってくれた。……ずっとユリウスが張りついて、鬱陶しいったらなかったよ」
ぞっとするような親しげな口ぶり。
「……ごめんなさい。どなた、でしょうか」
その瞬間、男の表情が凍りついた。
「……! 記憶喪失って噂は、本当だったのか」
重たい沈黙が降りる。
やがて、彼はゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、ミレイナちゃんのために何でも尽くしてきたんだ。
君の望むままに、全部。全部、だよ。
それを……忘れた、だと?」
息を呑む。
「まさか……そんなはずはない。こんなに尽くしてきたのに……?」
その声には、柔らかさの裏に、明確な執念が潜んでいた。
私は口を開こうとするけれど、喉が凍りついたように言葉が出てこない。
男は、一歩、一歩と歩み寄る。
赤絨毯に吸われているはずの足音が、なぜか鋭く響いた。
「俺は……君の命令ならなんでも聞いた。
あの女を襲わせる手配だって、なんだって……!」
――あの女?
頭の中で警鐘が鳴る。
「この俺の思いは……どこに置けばいい? 答えてくれ!!」
「……ごめんなさい。でも、覚えてないの」
必死に答えたつもりだったのに、声は震えていた。
(今……“あの女を襲わせる手配”って……?)
思わず問いかけてしまう。
「あの、聞きづらいのだけれど――“あの女”って、誰のことを……」
「そんなことは今はどうでもいい!!」
男が声を荒げた。
けれどそれは激情というより、焦燥に近かった。
「……君は忘れても、俺は忘れられない。
毎晩毎晩、君のことを思って眠れなかった。誰よりも君を想っていたのに……!」
自嘲するように、男は笑う。
「……おかしいよな。君は、ユリウスの隣を選んだ。だから、身を引いた。
でも――今、君はこんな顔で、俺を“知らない”なんて言う」
一歩、また一歩、距離を詰める。
「だったら、教え直すよ。……俺が誰なのか。
君にとって、誰よりも忠実で、忠犬みたいに命令を聞いていた――“リシュアン”だってことを」
その手が、私の肩に触れる。
拒もうとした瞬間、強く引き寄せられた。
「こんなことなら……無理にでも手に入れるべきだったんだよな……!」
勢いで背中のリボンを乱暴に引く音がした。
「きゃっ……!」
ドレスの背が緩み、肩が露わになる。
冷たい空気に晒された肌が、ぶるりと震えた。
触れられているのに、何も感じない。恐怖で、体の感覚すら曖昧になっていた。
「……君がユリウスのものでいることが“幸せ”だと思ってた。けど……もうそんなの、我慢できない」
男の瞳には、狂気とも絶望ともつかない光が宿っていた。
(怖い――)
喉が凍りつき、声が出ない。
その時だった。
「――その手を離せ」
鋭く、低い声が空気を裂いた。
振り返らずとも、わかった。
ユリウスだった。
「……リシュアン・アルヴェリウス公爵、……その手を離していただけますか」
声は低く抑えられていたが、空気は一瞬で張り詰めた。
待ってたよヒーロー!




