10、少しの打ち解け
実家へ戻った私は、すぐに兄――レオナルドと面会することになった。
その中で兄――レオナルドは、静かな眼差しで私を迎えてくれた。
落ち着いた雰囲気の人だと思った。どこか近づきがたいのに、不思議と安心できる気配があった。
その視線には、私の中にある“兄”という存在の記憶がなくとも、どこか懐かしさを感じさせるものがあった。
「……顔色は悪くないな。体調はどうだ?」
「ええ……問題ありません。ちゃんと眠れていますし、食事もきちんと」
私がそう返すと、兄はわずかに頷いた。
しばし沈黙が流れ、窓の外の木々を渡る風の音が、微かに耳に入る。
やがて、兄が静かに口を開いた。
「その……離婚したいというのは、本当か?」
私は少し俯き、けれど曖昧にはしたくなくて、きちんと顔を上げた。
「……はい。本気で考えているんです」
兄は、目を細めるようにして私を見つめた。
「おまえは、ユリウスに――あれほど執着していたのに」
「……でも、今の私は……そのことを、覚えていないんです」
「逃げたいからじゃありません。ただ……ちゃんと考えたんです。
お互いのために、離れたほうがいいのかもしれないって」
少しずつ、敬語が崩れていくのを自分でも感じる。けれど、それが自然な流れだった。
「それに……ユリウスは、私のことを恨んでいるのでしょう?」
「私も……今の状況は、つらいの。責められてばかりで、どうしたらいいかもわからない。
このまま結婚を続ける理由なんて、どこにもないと思う」
しばらく沈黙が落ちた。兄のまなざしが、どこか深く私を探るようだった。
「……記憶をなくしたおまえは、別人のようだな」
「……え?」
「以前のおまえなら、相手の気持ちなんて考えずに、自分の望むままに行動していたはずだ」
その言葉に、私は何も言えなかった。
否定もできなければ、納得もできない。ただ、胸の奥に冷たい何かが沈んでいくのを感じる。
「……そんなに、ひどかったの?」
掠れた声で問いかけると、兄は少しだけ眉をひそめた。
「ひどい、というより……そうだな。自分の欲に忠実だった。
欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばなかった。感情的で、衝動的で……傲慢だった」
一度言葉を切って、兄はふと目を細める。
「――あの頃のおまえは、目の奥に炎のようなものを灯していた。
人の気持ちなんて関係ない、ただ“手に入れる”ために突き進んでいた」
その言葉に、私は息を詰めた。
「でも……同時に、その必死さが、どこか危うくて、痛々しかった。
俺にはそれが見えていたのに、何もできなかった」
突きつけられる言葉の一つひとつが、胸に刺さる。
――見えていたのに、何もできなかった。
その言葉が、胸の奥で静かに反響する。
知らないはずの過去に、なぜか心が痛む。
まるで、ずっと誰かに助けを求めていた自分がいたような――そんな気がして、胸の奥がざわついた。
「……そんな自分だったこと、思い出せなくてよかったのかもしれない」
そう口にしたとたん、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
ぽつりと漏れた独り言に、兄が目を細めた。
「だが、今のおまえは……その頃とはまるで違うな」
私は顔を上げる。
「相手のことを考えて、苦しんで、悩んで……それでも、きちんと自分で答えを出そうとしている。
そんなふうに話すおまえを、また見られる日が来るとは……正直、思ってなかった」
どこか不器用なその言い方に、胸が少しだけあたたかくなった。
「それって、褒めてくれてるの?」
「いや、事実を言っただけだ」
ぶっきらぼうに返すその様子に、私はふっと笑った。
どこか懐かしい気がした。記憶にはないはずなのに。
「……お兄様。私、間違ってないかな」
「それを決めるのは、おまえ自身だ。だが……今のおまえなら、俺は信じてもいいと思う」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。
誰かに肯定されることが、こんなにも安心できるものだったなんて――知らなかった。
「ありがとう。……来てよかった」
レオナルドは何も言わず、けれどわずかに頷いた。
その静かな仕草だけで、私は十分だった。
お兄様......!!




