9、選択
ユリウスが姿を見せなくなって、数日が過ぎた。
私の生活は、驚くほど静かだった。
誰にも声をかけられず、呼ばれもせず、ただ寝起きして、食事をとり、ぼんやりと時を過ごす。
初めはその沈黙が怖かった。
でも、日に日に、その静けさが少しずつ心を冷ましていった。
頭がはっきりしてくると、不意に、ある考えが胸に浮かんだ。
(……離婚すれば、いいのかもしれない)
それは衝動でも逃避でもなく、冷静に辿り着いた答えだった。
あの夜、ユリウスが言ったことを、私は忘れられない。
例え記憶がなくとも、彼にとって“私”がどれほど許せない存在なのかは、痛いほど伝わってきた。
私だって、ただ責められるだけの毎日を望んでいるわけじゃない。
なぜ、今まで考えつかなかったのだろうか。
それほどまでに、私は心のどこかで“結婚を解消すること”すら、許されないと思い込んでいたのかもしれない。
(もう……終わりにしたほうがいい)
お互いのために。
その思いが胸の中で形を成したとき、私は“相談したい人”の顔を思い浮かべた。
――兄、レオナルド。
両親のように、無条件の愛情を注いでくれる人ではないのかも知れない。
私のことをただ甘やかすのではなく、常に一歩引いたところから見ている――そんな印象がある。
けれど今の私には、そういう距離感がありがたかった。
記憶を失ってから一度しか会っていない。
そのときだって、長く言葉を交わしたわけじゃない。
でも、なぜか思うのだ。
(……お兄さまなら、話を聞いてくれるかもしれない)
兄なら、今の私をちゃんと見てくれる気がする。
冷静で、客観的に、誠実に。
何より、頼りたいと思った。
それは感情の逃げ場ではなく――
心のどこかで「この人なら」と思えた、静かな確信だった。
自然と、胸の奥に灯がともったような気がした。
私は机に向かい、便箋を取り出す。
震える指でペンを握り、ゆっくりと兄への手紙を書き始めた。
今の自分に起きていること。
思い出せない過去に苦しんでいること。
そして、離婚を考えていること――。
全てを正直に書くことはできなかったけれど、できる限りの言葉を綴った。
そして最後にこう記す。
――一度、実家へ帰りたい。お兄さまに、会って話したい、と。
封を閉じ、呼び鈴で侍女を呼ぶと、手紙を届けてほしいと告げる。
「……ありがとう。助かるわ」
私がそう言うと、侍女は一瞬だけ目を丸くし――すぐに控えめに頭を下げた。
「……いえ。かしこまりました、奥さま」
その返事はどこか丁寧で、けれどほんの少しだけ、声が柔らかくなった気がした。
返事が届くまでは、きっと数日かかる。
でも、心は少しだけ軽くなった。
私は今、ようやく“誰かに助けを求める”という選択ができたのだ。
それだけでも、前とは違う。
逃げるためじゃない。変わるために――私は、兄に会いに行こうとしているのだから。
少し前向きになれたミレイナちゃん




