第8話 壊れた鎧3
健太のスマートフォンには「三菱商事 伊藤課長」「三菱商事 人事部」の着信履歴が溜まっていった。健太は応答せず、電話が鳴り止むのを待った。
翌朝、シャワーを浴び、髭を剃り、スーツに袖を通した。鏡の中の自分は、ひどく痩せて、顔色が悪かったが、少なくとも外見は「佐伯健太」として整っていた。
何より、母親に知られたくない。正式に休職の手続きをしに会社に行かなければならない。
彼は深呼吸をして玄関を出た。しかし、エレベーターに乗り込んだ瞬間、猛烈な動悸が彼を襲った。息が詰まり、冷や汗が噴き出す。
「だ、大丈夫、大丈夫だ...」健太は自分に言い聞かせる。
しかし、会社に向かうと、恐怖で足が竦んだ。
彼は反対方向に歩き始めた。
どこに行くという目的もなく、ただ会社から遠ざかることだけを考えて。
朝の通勤ラッシュが始まる中、健太は人混みを避けるように裏通りを選んで歩いた。行き交う人々は皆、目的を持って急いでいるように見える。彼だけが漂流している。
時々スマートフォンが震えたが、健太はポケットの中で端末の電源を切った。逃げ続ける自分が情けなかったが、今はただ、誰にも会いたくない。
正午近くになると、健太は自分が目黒川沿いを歩いていることに気がついた。夏前の弱い陽射しが水面を照らし、そよ風が彼の髪を揺らした。川面を見つめながら、彼は立ち止まった。
「俺は何をしているんだろう...」
彼は呟いた。「最優秀新人社員賞」の自分が、今や「最低賞」か、逃亡者のように街をさまよっている。その落差に、彼は苦笑いを浮かべた。
午後、空腹を感じた健太はコンビニに入った。しかし、弁当を手に取った瞬間、胃が拒絶反応を示した。結局、ペットボトルの水だけを買って店を出た。
彼は再び歩き始めた。今度は品川の高層ビル群の方向へと。かつて自分が属していた世界。輝かしい企業のロゴが並ぶ摩天楼を見上げながら、彼は自問自答した。
「あの世界に戻れるのだろうか...」
夕方、疲労で足が動かなくなった健太は、五反田駅近くのベンチに腰を下ろした。一日中歩き回り、スーツは皺だらけになり、靴は埃で曇っていた。彼の外見は、もはや「完璧な佐伯健太」のイメージからはかけ離れていた。
駅前の電光掲示板が18時を告げた。会社の人々は今頃、残業を始める時間だ。健太のスマートフォンは依然として電源が切られたままだった。どれだけの不在着信やメッセージが溜まっているのか想像すると、胸が締め付けられた。
五反田公園のベンチに座ると、実家から送られたみかんのお礼に、短いメールを母親に送った。
「お母さんありがとう!みかん美味しかったよ!お陰で仕事がんばれてます。プロジェクトも2つ任され、全て順調!心配ないからね。」
真実を伝える勇気はなかった。「東大卒、成功者、自慢の息子」の崩壊を、母親に知られる訳にはいかない。
部屋は日に日に荒れていった。食器は洗われず、ゴミは溜まり、カーテンは閉じたまま。昨日食べたインスタントラーメンの空き容器が床に散乱している。コンビニ弁当の匂いが部屋に充満していた。
ある金曜日の午後、突然のインターホンに健太は飛び上がった。スーツのままベッドに横たわっていた彼は、恐る恐るドア越しに声を出した。
「どちら様ですか?」
「健太?私よ!」母親の声だ!
健太は凍りついた。
なぜ母親が東京に?電話で「心配ない」と何度も言ったのに…
ドアを開ける前に、彼は部屋を見回した。言い訳できないほどの惨状だった。
震える手でドアを開けると、そこに母親の幸子が立っていた。
彼女の表情には驚きと心配が混ざっていた。
「お母さん...なんで?」
幸子は黙って息子の顔を見つめた。
健太のやつれた顔、無精ひげ、血走った目、痩せこけた頬。すべてが彼の嘘を物語っていた。
「電話の声がいつもと…違ったし、心配いらないって何度も言うから…」彼女は静かに言った。
「それに、健太、会社に行ってないのね?…会社から連絡があったのよ。」
健太は言葉に詰まった。
『東大卒、成功者、自慢の息子』の上映会が遂に終わった。足元が崩れ落ちる音が聞こえた。
「ごめん...嘘ついてた」彼は頭を垂れた。
「僕、会社に行けなくなったんだ。電車に乗ると、動悸がして、呼吸ができなくなって...」
幸子は黙って部屋に入った。散らかった部屋、閉じられたカーテン、洗われていない食器の山。送られたまま開封していないみかん箱。そして、スーツを着たまま力なく立つ痩せこけた息子。
「何もかもダメになったんだ!」健太の声が震えた。
幸子は何も言わず、ただ息子に歩み寄り、その痩せた体を抱きしめた。
「何もダメになんかなってないわ!あなたはあなたのまま!…私の自慢の息子よ!」
その言葉を聴き、健太は張りつめていた糸が切れたように泣き崩れた。
恐怖と罪悪感が一気に溢れ出た。
肩と膝の力が抜けて崩れ落ち、震える健太を母親が支えた。