第7話 壊れた鎧2
アジア太平洋プロジェクトが彼の生活のすべてを飲み込んでいった。
朝は誰よりも早く出社し、夜は最終の清掃スタッフが帰る時間まで残業する日々。蛍光灯に照らされたオフィスで、彼は一人資料と格闘していた。パソコンの画面から放たれるブルーライトが彼の目を痛め、頭痛の種となっていた。
「佐伯さん、また徹夜ですか?」
清掃員が心配そうに声をかける。健太は疲れた目をこすりながら微笑んだ。
「あと少しで終わりますから、先に帰ってください。」健太はデスクの引き出しから頭痛薬を取り出した。この2ヶ月で、薬を飲む頻度が明らかに増えていた。胃の痛みも常態化し、コンビニ弁当を食べるたびに胸やけを起こすようになっていた。
シンガポールとのテレビ会議は深夜に設定されることが多く、彼は眠気と闘いながら英語での交渉に臨んだ。帰宅するのは午前2時過ぎ。仮眠のような睡眠を取った後、また朝6時には起き上がり、出社の準備をする。「このペースはまずい」と頭では理解していながらも、彼の体は惰性で動き続けた。
プロジェクト開始から3ヶ月目のことだった。
マレーシアチームとの重要なミーティングで、健太は徹夜で準備した資料を用いて堂々とプレゼンテーションを行った。表面上は完璧な内容に見えた。しかし、マレーシア側の責任者が突然質問を投げかけた。
「このP/L予測の根拠となる為替レートの想定は?」
健太は一瞬言葉に詰まった。彼が徹夜で作成した表の中に、明らかな計算ミスがあったのだ。ドルとリンギットの為替レートを取り違えていた。小さなミスのように思えたが、それによってプロジェクト全体の収益予測が大きく狂っていた。
「申し訳ありません、確認させてください!」
健太は冷や汗を流しながら、資料をめくった。会議室の空気が急に冷たくなったのを感じた。伊藤課長の視線が、鋭く彼を射抜いていた。
会議後、伊藤課長は健太を会議室に呼び出した。
「何があったんだ?あんな初歩的なミスを…」
健太は頭を下げた。「申し訳ありません。確認が不十分でした。」
「このプロジェクトは会社の命運がかかっているんだぞ!君に任せて大丈夫かと聞かれたら、私は断言したんだ。『佐伯なら大丈夫だ』と」
課長の言葉の一つ一つが、健太の胸に針のように刺さった。彼は自分の不甲斐なさに、歯を食いしばった。
「必ず挽回します!」
健太の声には決意と焦りが混ざっていた。
ある朝、健太は鏡を見て愕然とした。顔色は土気色で、目の下には濃いクマができていた。髪はつやを失い、頬はこけていた。
「大丈夫か?」
同期の田中が心配そうに声をかけてきた。
「ちょっと風邪気味で」
健太は苦笑いを浮かべた。頭痛は日常となり、時々めまいに襲われるようになった。
胃の痛みは慢性的になり、時々吐き気を催し、ミスも増えていった。集中力が続かず、簡単な計算を何度もやり直すことが多くなった。メールの返信を忘れたり、会議の時間を勘違いしたり。以前の健太なら考えられない失態が続いた。
「佐伯、大丈夫か?」
伊藤課長の声は厳しさの中に、わずかな心配の色も混じっていた。
「はい、問題ありません」
そう答える彼の声は、もはや自分のものとは思えないほど空虚だった。
「もしもし、お母さん?」
深夜、自宅のアパートで健太は携帯電話を握りしめていた。
「健太?こんな時間にどうしたの?」
母親の幸子の声には心配が混じっていた。
「いや、何でもない。ただ、声が聞きたくて」
健太は本当のことが言えなかった。「東大卒の息子が一流企業で活躍している」という母親の誇りを傷つけたくなかった。
「仕事、忙しいの?」
「ま、まあね。でも充実してるよ」
嘘だった。充実どころか、彼は日に日に自分を見失っていた。電話を切った後、彼はベッドに横たわったが、眠れなかった。
天井を見つめながら、頭の中では明日の仕事、未完了のタスク、伊藤課長の厳しい視線が渦を巻いていた。プロジェクト開始から半年。電車に乗るだけで動悸がし、オフィスビルを見るだけで吐き気がする。
その朝、健太の体は限界を迎えた。
朝6時に仮眠から目覚めた時、彼の胸に激しい動悸が走った。息が詰まるような感覚。手足が震え、冷や汗が全身を覆った。
「何だこれは...」
健太は浴室の床に座り込んだ。心臓が破裂するのではないかという恐怖が彼を襲った。呼吸が浅くなり、部屋が回っているような感覚。
「死ぬ...死んでしまう...」パニック発作だった。初めての経験に、健太は混乱した。何とか呼吸を整え、水を飲んだ後、彼は震える手で会社に電話をした。
「すみません、体調が悪くて...」
彼の声は震えていた。伊藤課長が電話に出ると、健太は言葉に詰まった。
「今日のタイとのミーティング、君がいないと始まらないんだが?」
伊藤の声には苛立ちが混じっていた。「どうしても無理なのか?」
「た、体調が優れなくて…」体の声には逆らえなかった。自分を責めたが、会社を休むと動悸は治まった。
「佐伯君…待ってるぞ!少しでもいい、出社してくれ!明日は来れるのか?」
吐きそうになりながら、言葉を振り絞った。「明日は、必ず…出社します。」
三週間前から続く同じ言い訳が、上司の声を冷たくしていった。
朝六時。目覚ましのアラームが鳴り、健太は機械的に体を起こした。シャワーを浴び、スーツに袖を通し、ネクタイを締める。一連の動作はすべて無意識のように行われた。
「今日こそは!」
彼は鏡に映る自分に言い聞かせた。昨日も、その前の日も、同じ言葉を呟いていた。
アパートを出て駅に向かう。改札を通り、ホームで電車を待つ。周囲のサラリーマンたちの顔が、突然歪んで見えた。みな彼を見ている。みな彼の失敗を知っている。みな彼を責めている。
電車が到着し、ドアが開く。健太の足は動かなかった。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。汗が背中を伝い落ちた。動悸が激しくなっていく。
「次の電車にしよう…」
そう自分に言い聞かせ、ホームのベンチに座った。しかし次の電車も、その次の電車も同じだった。結局その日も、彼は会社にたどり着けなかった。
アパートに戻った健太は、スーツ姿のまま布団に倒れ込んだ。携帯電話を手に取り、会社に連絡を入れる。
「すみません、今日も体調が優れなくて...」
「佐伯君…またか…」
三週間前から続く同じ言い訳が、上司の声を冷たくしていった。
吐きそうになりながら、言葉を振り絞った。「明日は、必ず…出社します。」
「もう出社しなくていいから、ゆっくり安め!」
「遂に、俺の人生は、終わりだ。…輝く成功の、日々は、これで、終わりなのだ…」
深い失意と、安堵が入り混じっていた。