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第6話 壊れた鎧 1

 五反田クリニックの相談室は、やわらかな光が窓から差し込み、壁の淡いベージュが心を落ち着かせるよう設計されている。山科時輪は窓際の小さなデスクに向かい、次の患者のカルテに目を通していた。

  扉が開き、スーツ姿の若い男性が入ってきた。背が高く、痩せ型。整った顔立ちだが、目の下のクマと青白い顔色が目立つ。

「佐伯健太さんですね?」

「よろしくお願いします…」その声は小さく、視線は床に向けられていた。

「お気持ちの許す限り、しんどいご様子をお話しいただけますか?」時輪は穏やかな表情で彼を迎えた。

「はい…」


―――――――――――――


「最優秀新入社員賞、三菱商事国際部門、佐伯健太!」


 大きな拍手が会場に響き渡った。高級感漂う式場のシャンデリアの光が、壇上に向かう健太の姿を照らし出す。彼の一歩一歩は確かで、背筋は真っ直ぐに伸び、表情には引き締まった誇りが宿っていた。まるで映画の主人公のように、すべての視線が彼に集まる。

 スーツの折り目一つないシルエットは、彼の完璧主義を象徴していた。襟元のネクタイピンは、大学卒業祝いに両親から贈られたもの—彼の人生における節目を飾る大切な品だった。

「ありがとうございます」

 健太は深々と頭を下げた。その声は落ち着いていたが、内側では高揚感が渦巻いていた。壇上から見渡すと、先輩社員たちの目には尊敬と期待が混ざり合い、彼らの中には嫉妬の色を隠せない者もいた。彼はそれすべてを飲み込むように、どっしりと立っていた。


 東京大学経済学部を卒業してからの二年間は、ただ一筋の道を突き進んできた。地方の中小製紙工場に勤める父と、パート勤めの母から遠く離れた東京で、健太は自分の存在価値を証明するため日々闘っていた。特に母親の幸子からの期待は、時に重く、時に彼を奮い立たせる原動力となった。


「佐伯くんのおかげで、私たちの部署の評価が大幅に上がったよ!」

 伊藤課長が、祝賀会の喧騒の中で彼に語りかけた。「特に中国市場の分析レポートは、本社からも高い評価を受けている!」

 伊藤課長の肩を叩く手には、単なる上司の労いを超えた重みがあった。それは次なる挑戦への布石でもあった。健太はそれを感じ取りながらも、表面上は謙虚さを崩さなかった。

「いえ、先輩方のご指導があってこそです。まだまだ勉強することばかりで…」

 健太は完璧に練られた謙遜の言葉を口にしながらも、心の中では小さな勝利の喜びを噛みしめていた。東大時代の友人たちが就職活動に苦戦する中、自分だけが大手商社の狭き門をくぐり抜け、さらに短期間でこれほどの評価を得たことに、密かな優越感も覚えていた。

 密かに異変も感じていた。

 表面上の輝かしい栄誉とは裏腹に、彼の意識下では悲鳴を上げ始めているもう一人の自分がいた。耳を傾けないようにしている自分自身の悲鳴が、徐々に彼の内側から大きくなりつつあった。 

 夜中に突然目が覚めて二度と眠れなくなる夜が増え始め、胃の奥に常に鈍い痛みを感じるようになっていた。誰にも気づかれない悲鳴がやがて身体の不調に変わり、やがて彼の全存在を飲み込む深淵へと変わる。

 その日は彼の絶頂期であると同時に、崩壊の始まりでもあった。


「佐伯、アジア太平洋プロジェクト、君が担当だ!」

 表彰式から二ヶ月後のある朝、灰色の曇り空が窓からオフィスを薄暗く照らす中、伊藤課長の声が健太の耳に届いた。その言葉は、彼の人生の針路を大きく変えることになる転換点だった。

 健太のデスクには既に三つのプロジェクトの資料が積み上げられていた。四角い蛍光灯の光の下、彼は疲労を隠してまっすぐに背筋を伸ばした。ネクタイを無意識に締め直し、わずかな躊躇も見せずに答えた。


「はい、任せてください」

 その言葉は彼の口から自動的に出てきた。これまでの実績が認められての大きな案件。プロジェクトリーダーとしての初めての抜擢だった。嬉しさが胸を満たすと同時に、皮膚の下を這うような不安も感じた。

「締め切りは来月末だ。シンガポール、マレーシア、タイのチームと連携して進めてくれ!」

 伊藤課長の声には一片の迷いもなかった。彼はこの困難な任務を健太に与えることに何の疑問も持っていない様子だった。

「才能あふれる君なら当然やれる!」という、言外の期待が重く圧し掛かってきた。

「本社からも注目されているプロジェクトだ!うちの部の将来にも関わっている。」

 そう言い残して立ち去る伊藤課長の背中を見送りながら、健太は深呼吸し、スケジュール表を開いた。既に予定されていた別プロジェクトに加えての新たな任務。一見しただけでそのタイトさに目眩がした。通常なら二人がかりでやるべき量の仕事だった。


 健太は頭の中で計画を組み立てていた。その計画は、健太が遅くまで会社に残り海外との連絡は深夜にやり、朝は一番に出社して、昼食は机で済ませるしかない週末も返上する様な計画だった。何とか無理をすれば間に合うはずだ。これまでも同じようにして乗り越えてきたのだから…と自分に言い聞かせた。

「頑張ります!」

 彼は自分に言い聞かせるように呟いた。その声には自信と不安が入り混じっていた。


 オフィスの窓から見える灰色の空には、雨雲が垂れ込めていた。


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