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第4話 制御された離人

 娘の美咲が大学を卒業した頃、時輪は精神保健福祉士としてのキャリアを深めていた。非常勤から常勤へと移行したいと考えていたが、恭介はあまり乗り気ではなかった。そんな変わらない生活を望む恭介と時輪の関係に亀裂が生じ始めていた。共通の話題が減り、会話が形式的になっていた。

「今の働き方で十分じゃないか」と彼は言った。

「美咲はもう大学生よ。私にも自分の人生がある」と時輪は反論した。

 彼らの価値観の違いは、次第に大きくなっていった。


 時輪が47歳、美咲が大学卒業した春のこと。その日、恭介との口論が激化していた。

「いつも仕事ばかりで、家族のことを考えていない」と恭介が言った。

「私だって必死に働いているのよ」精神科病院で働いていた精神保健福祉士の時輪は反論した。

「それに、あなたこそ家のことに無関心じゃない!」

「俺が稼いでくるからこの家が成り立っているんだ。非常勤のお前の給料なんて足しにもならない!」その言葉は時輪の胸を刺した。まるで父の声が恭介の口から聞こえたかのようだった。


 母が震える姿が、目の前に重なった。

「現実を見ろよ。お前は俺がいないと何もできないじゃないか!」という父の声が聞こえた。

「私...私は母さんじゃない!」時輪は震える声で言った。「私はあなたに依存して生きてなんかいない!!絶対に!!」

「何を言っているんだ?」恭介の声はさらに大きくなった。


 その瞬間だった。時輪の意識が急速に浮遊感に包まれた。体が軽くなり、天井に向かって上昇していくような感覚。周囲の景色が歪み、恭介の声が遠くなっていく。そして、彼女の意識は現在から離れ、過去へと引き戻されていった。


 時輪は突然、自分が15歳の自室にいることに気がついた。窓の外は夕暮れで、遠くから父と母の言い争う声が聞こえてくる。彼女は自分の若い手を見つめた。これは幻想ではない。彼女は実際に過去に戻っていた。

「あの日...」時輪は小さく呟いた。


 大人の意識を持つ時輪は、15歳の体で、あの運命の日に立っていた。父が母を殴り、彼女自身も傷つけられた日。そして、彼女の中に別の人格が初めて現れた日。

 時輪は深呼吸し、部屋を出た。廊下を進み、リビングへと向かった。

 リビングのドアを開けた時、彼女の目の前には予想通りの光景が広がっていた。父親が立ったまま母を見下ろし、母は床に座り込み、頬を押さえていた。


「止めなさい!!!」

 47歳、精神保健福祉士としての知識と経験を持つ時輪が、怒りに満ちて怒鳴りつけた。

「もういい加減になさい!!!」沸々と怒りが湧き上がってくる。

「こんなことをして、あなたは何を得るつもりなの?!!」

 父と母が驚いて振り向き、何が起こっているのか理解できない様子で戸惑っている。


「時輪?お前、何を言っている?部屋に戻れ」父が言った。

「あなたは自分の弱さを暴力で隠しているだけじゃない!!!本当に強い人間は、弱い人を打ちのめしたりしない!!それが分からないの?!!」時輪は精神科で数え切れないほどの患者と向き合ってきた経験から、父親の心理状態を見抜いていた。彼のコントロールできない怒りの背後には、恐怖と無力感が隠されていることを。


「いい加減に、弱い自分に向き合いなさい!!」精神保健福祉士としての言葉が止まらない。

「くそ生意気な!」父の顔が怒りで歪んだ。


 彼が手を上げたが、時輪は合気道で培った気合いの力で一歩も退かなかった。今まで数知れない相手と手合わせしてきた。大会で優勝した事もある。相手が80キロの父であろうとも…力む相手を飛ばすのは容易い。勝算を確信していた。

 合気道の熟達者の気に押され、父の手が宙に止まっている。

 一瞬の静寂が部屋を支配した。


「叩いてみなさい!!そうすれば、あなたがどれだけ哀れな人間か、それがはっきりと分かるわ!!!」父の怒りに油を注ぐ。

「こ、こ、この小娘!生意気な…!」父の顔が怒りで歪んだ。


 父の怒りが再び爆発し、彼の手が振り下ろされようとした瞬間、時輪の体は合気道で培った技術で驚くべき速さで動いた。細い指が父の腕を掴み、しなやかな動きで受け流す。父の重心が崩れた瞬間、時輪の両手が父の胸に触れた。父の体が宙に浮き、後方へと放り出された。体重80キロを超える大柄な父が、合気の熟達者である時輪の手によって弧を描いて飛ばされた。


 バシン!!

 父の背中が壁に激しくぶつかり、飾り棚が揺れた。花瓶が落ち、床で割れる音が鋭く響いた。父は痛みに顔を歪め、床に崩れ落ちた。

「あなた!」母が悲鳴を上げた。


「あなたはもう誰も傷つけない!!」怒りに任せた鈍い動作なら、体重が何キロあろう容易い。自らの怒りで自らを自滅させるのは、合気道の基本だ。

 時輪の目は憐れみの目で、床に倒れた父を見下ろしていた。


「この家で暴力を振るうのは、今日で最後にしなさい!!」…もうウンザリだわ。

 父は震える手で壁を支え、ゆっくりと体を起こした。彼の顔には今まで見たことのない恐怖の色が浮かんでいた。


「分かったわね!!!」

「お前…お前は時輪じゃない。」その言葉に時輪はドキッとした。直感的に父は分かったのだ。早く元の時空に戻らねば、しかし母にも絶対に言わなければならない。同じ繰り返しはもう懲り懲りだ。


「そして、あなた!!」急いだ時輪は振り返りざまに母親に言った。

「時輪?...あなた...」

「なぜ立ち上がらない?!この人から離れて、逃げればいい!!自分の人生を生きればいい!!勇気を持って踏み出しなさい!!」母親は呆然とした表情で、恥ずかしさに震え、そして泣きながら、混乱した表情で娘を見上げる。


「私たち母子を守るのはあなたの責任なのよ!!!」なぜ立ち上がらないの?この人から離れて、自分の人生を選択する権利があるわ。経済的自立は難しいかもしれないけど、支援機関はたくさんある。女性相談センター、法テラス、生活保護も利用できる。仕事はきっと見つかる。そう、私たち母子を守るのはあなたの責任なのよ。それは重い責任かもしれないけれど、あなたにはできる。私を守るだけじゃなく、あなた自身も守らなくちゃ。DV被害者が利用できる社会資源が各市町村にあるわ。住まい、経済的な面で支援してくれる。


「と、と、時輪?...あなた?」

 次の瞬間、彼女の意識は激しく揺さぶられた。天井へと引き上げられるような感覚。そして、暗闇の中を漂う感覚。時輪は自分が時間を旅していることを感じた。


 あ!もう少し、伝えなきゃ…伝え…

-----------------------


「時輪!時輪!」

 恭介の声が遠くから聞こえてきた。時輪は目を開けた。彼女は自宅のリビングの床に横たわっていた。恭介が心配そうな顔で彼女を見下ろしていた。


「大丈夫か?突然倒れて...」

 時輪はゆっくりと起き上がった。彼女は47歳に戻っていた。けれど、何かが違っていた。頭の中の記憶が再構成されるような奇妙な感覚。彼女は自分の記憶が僅かに変化している事に気づいた。


 私は未来を変えてしまったの?

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