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第3話 時を超えた心

 時輪が16歳、高校スクールカウンセラーの勧めで合気道を始めた。

「身体を鍛えることは、心の安定にもつながります」と言われたのがきっかけだった。最初は気乗りしなかったが、一度道場に足を運んでみると、不思議と心が落ち着くのを感じた。

「合気道は相手の力を利用する武道です」と指導員の渡辺先生は穏やかに説明した。

「力で押し返すのではなく、流れに身を任せ、その流れを導くのです」時輪は稽古を重ねるうちに、自分の中の「離人症」と向き合うヒントを見つけ始めていた。

「呼吸を整え、軸を定め、流れに身を任せる…」渡辺先生の言葉は、時輪の心に深く刻まれていった。

 父からの暴力が続く家庭では、彼女は引き続き離人状態に逃げることがあったが、合気道の道場だけは彼女にとって安全な場所だった。


 高校生活を通じて合気道に打ち込んだ時輪は、大学では心理学を専攻した。

「自分自身を理解したい」という願いからだった。

 講義で離人症について学んだ時、時輪は息をのんだ。教授が説明する症状は、彼女が長年経験してきたものと完全に一致していた。

「離人症は、トラウマや強いストレスから心を守るための防衛機制の一つです」と教授は説明した。

 講義の後、時輪は図書館で離人症に関する文献を徹底的に調べた。そして、自分の体験に名前が付いたことに、奇妙な安堵を覚えた。彼女は自分の症状を「制御された離人」と名付け、日記につけ始めた。

 大学でも合気道を続けた時輪は、次第に道場の助手としても活躍するようになった。体を動かすことで離人の症状がコントロールしやすくなることを発見し、稽古の前後には必ず呼吸法と軽い瞑想を取り入れていた。

「山科さんは、誰よりも集中力がありますね」と道場の師範が彼女を褒めた。

「まるで自分の内側と外側を同時に見ているかのようです。」

 22歳で大学を卒業した時輪は、精神科病院での研修を始めた。そこで彼女は立花恭介と出会った。彼は研修医として働く穏やかな性格の男性で、時輪の静かな佇まいに惹かれたという。

「君は患者さんの気持ちがよく分かるみたいだね」と恭介は言った。「その共感力はどこから来るの?」

 時輪は少し考えてから答えた。


「自分自身の中に、いくつもの自分がいるからかもしれない」

 恭介はその言葉の真意を理解できなかったが、時輪の優しさと強さに惹かれ、彼らは次第に親しくなっていった。研修終了後も二人の関係は続き、半年後に恭介からプロポーズを受けた。

「僕と一緒に人生を歩んでくれないか」と恭介が言った時、時輪は一瞬躊躇した。

 自分は本当に人を愛し、愛される資格があるのだろうか。けれど、恭介の誠実な眼差しに、彼女は…

「はい」と答えていた。

 結婚生活は、表面上は順調だった。恭介は優しく、時輪を尊重してくれた。

 時輪もまた、精神保健福祉士として働きながら、家庭を支えた。けれど、長女の美咲が生まれたことで、時輪の内側に変化が起き始めた。

 産後の疲労と育児の重圧、そして恭介の仕事の忙しさによる不在が重なり、彼女は再び離人の症状に悩まされるようになった。

 美咲が夜泣きをする時、時輪はときどき自分が天井から自分と赤ちゃんを見下ろしているような感覚に陥った。ミルクを作り、おむつを替え、子守唄を歌う自分を、どこか遠くから眺めている感覚。

「私は良い母親なのかしら」と時輪は自問自答した。

 心の奥では、自分が母親のようになることを怖れていた。無力で、依存的で、子どもを守れない母親になることを。


 恭介が夜遅く帰ってくる日が増えた頃、時輪の離人症状は悪化していた。彼女は赤ちゃんを寝かしつけた後、一人リビングで膝を抱えて座り込むことがあった。そんな時、彼女の意識は徐々に体から離れ、過去の記憶の断片が走馬灯のように流れた。

 ある夜、恭介が仕事で遅くなると連絡してきた日のことだった。

 美咲は高熱を出し、泣き止まなかった。時輪は焦り、不安で胸が詰まる思いだった。

「大丈夫よ、大丈夫…」彼女は美咲に言い聞かせるように、自分自身にも言い聞かせた。けれど、赤ちゃんは泣き止まず、熱も下がらない。薬を飲ませても効果がない。

 時輪は次第に自分が無力だと感じ始めた。そして、ふと母親の言葉が耳元で響いた。


「仕方ないのよ。私たちは一人では生きていけないの」

 その瞬間、時輪の意識が浮遊し始めた。彼女は自分が天井から自分と赤ちゃんを見下ろしているのを感じた。けれど今回は、単なる観察者ではなかった。彼女の視点は過去へと引き戻されていた。


 彼女は突然、自分が10歳の時の記憶の中にいることに気がついた。発熱で寝込んでいた時の記憶だった。

 母親が冷たいタオルで額を拭き、「大丈夫よ、時輪」と囁いていた。父親は出張中で不在だった数少ない穏やかな日々の一つだった。

「お母さん」10歳の時輪が呟いた。

「どうしたの?」母親が優しく応えた。

「どうして、お父さんと一緒にいるの?」

 母親の手が一瞬止まった。

 彼女は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「あなたを守るためよ」母親は静かに言った。「私一人じゃ、あなたを育てられないから。」

「でも、お父さんはお母さんを傷つける。」食い入るように母親を見つめた。

「それでも、あなたのお父さんなの」母親の目には涙が浮かんでいた。

「家族なの。私たちは家族だから、一緒にいるの。」

 大人の時輪は、その記憶の中に立ち尽くしていた。

 母親の言葉に隠された恐怖と諦め、そして愛情の複雑な混合物を、今なら理解できた。母親は彼女なりに時輪を守ろうとしていたのだ。けれど、それは結局、二人とも傷つける選択だった。


 時輪は突然現実に引き戻された。

 美咲がようやく眠りについていた。熱も少し下がったようだった。時計を見ると、離人状態になってから30分が経過していた。

 彼女は震える手で日記を取り出し、今日の体験を書き留めた。

「今日、私は過去の記憶に戻った。それは単なる回想ではなく、あたかもその場にいるかのような鮮明な体験だった。母の言葉が今も耳に残っている。『あなたを守るため』と彼女は言った。けれど、本当に守られていたのだろうか。そして今、私は美咲を本当に守れているのだろうか?」


 それから数年、時輪は精神科病院で精神保健福祉士として働きながら、家庭と仕事の両立に奮闘した。美咲は健やかに成長し、時輪と恭介の生活も安定していた。けれど、時輪の内側では、自分自身への不信という鬱積したものが少しずつ膨らんでいた。


 彼女の離人症状は、勤務先の精神科病院で特殊な能力として現れるようになっていた。患者と話していると、時に彼らの過去のトラウマ的経験に自分が立ち会っているような感覚を覚えることがあったのだ。

「山科さんは患者の気持ちがよく分かるね」と同僚は言った。「まるで魔法のように、彼らの心を読んでいるみたい」

 時輪はただ微笑むだけだった。彼女にとってそれは魔法ではなく、時を超える奇妙な共感できる能力だったが、誰にも説明できるものではなかった。

 それに、服薬治療中心の精神科病院の患者に対しては、閉塞された環境内で自身の共感能力を発揮しても、一時的な慰めにしかならない様な限界を感じていた。

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