第33話 4つの光
東京青樹会大学病院の白い廊下に、三人の足音が静かに響いた。
佐伯健太、鈴木理沙、渡辺茉莉。…それぞれが異なる道のりを歩んできた三人が、共通の目的によって結ばれ、今この瞬間を共有していた。
「4階の402号室」健太が病室の番号を確認した。
理沙は手に持った小さな花束を見下ろした。白いカスミソウとピンクのガーベラ。派手すぎず、地味すぎない。病室に適した花束を選ぶのに、彼女は三十分を費やしてきた。
茉莉は図書館から借りてきた詩集を抱えていた。『谷川俊太郎詩選』。言葉の力を信じる彼女なりの贈り物だ。
扉の前で三人は立ち止まった。
「どうしましょう…突然押しかけて、迷惑ではないでしょうか?」理沙が小さな声で言った。
「でも、来てしまいました」茉莉が答えた。
「今更引き返せませんよ」健太はノックした。軽く、遠慮がちに。
「はい…」聞き慣れた声が聞こえた。山科時輪の声だ。しかし、その響きにはいつもの力強さが欠けていた。
「失礼します」健太が扉を開けた。
病室は明るく、窓から午後の光が差し込んでいた。
ベッドに座った時輪が、三人の姿を見て目を丸くした。
「え?皆さん?...どうして」
時輪の顔は痩せていた。頬がこけ、目の下にクマができている。しかし、その瞳には以前と変わらない温かさがあった。
「山科さん」理沙が前に出た。「お見舞いに来ました。突然で申し訳ありません」
茉莉は花束を手渡した。「お体の具合はいかがですか?」
健太は椅子を三つ並べながら言った。「僕たち、心配していたんです」
時輪は花束を受け取りながら、目に涙を浮かべた。
「ありがとう。本当に…ありがとう!」
4人の間に、静かな時間が流れた。
病室の外では医師や看護師の足音が聞こえ、遠くで救急車のサイレンが響いていた。
「山科さん」健太が口を開いた。「僕たちは、あなたに救われました!」
「私も!」理沙が続けた。「あなたがいなかったら、今の私はありません」
茉莉は詩集を開きながら言った。「恩返しという言葉は適切ではないかもしれませんが、今度は私たちがあなたを支えたいんです!」
時輪は静かに涙を流していた。それは悲しみの涙ではなく、深い感謝と安堵の涙だった。
「実は…」時輪は声を震わせながら話し始めた。「私は長い間、自分が何者なのか分からずにいました」
三人は静かに耳を傾けた。
「皆さんを助けようとするあまり、時間を超越したり、別の人格になったり...そんな不思議な体験を重ねてきました。でも最近、それが何だったのか、ようやく理解できました」
理沙がスケッチブックを開いた。そこには、一人の女性が複数の影に分かれている絵が描かれていた。
「私も同じです」理沙が言った。
「双極性障害で、自分が複数の人間のように感じることがありました」
茉莉も頷いた。「統合失調症の症状で、現実と非現実の境界が曖昧になることがありました」
健太は前に身を乗り出した。「僕は適応障害で、自分が自分でなくなるような感覚を味わいました」
時輪は三人の顔を見回した。そこには理解と共感があった。同じ苦しみを知る者だけが持つ、深い洞察があった。
時輪は微笑んだ。「そうですね」「私たちは皆、何らかの形で自分自身と分離した経験を持っています」
「でも」健太が言った。「それは弱さではありませんよね」
「むしろ生き抜くための知恵だったのかもしれません」理沙が続けた。
茉莉は詩集から一節を読み上げた。
「『傷ついた場所から光が入る』...これは谷川俊太郎の詩の一節です。私たちの傷は、同時に光の入り口でもあるのかもしれません」
時輪の目に、新しい光が宿った。それは超常的な力ではなく、人間としての深い理解から生まれる光だ。
「ありがとう」時輪は三人に向かって言った。「皆さんのおかげで、私は新しい道を見つけることができそうです」
「どんな道ですか?」健太が尋ねた。
「時間を超越する力に頼るのではなく、今この瞬間に完全に存在することで人を支える道です。過去を変えるのではなく、現在を共に歩む道です」
理沙は新しいページに絵を描き始めた。四人の人物が手を繋いで円を作っている絵だった。
「私たちも、その道を一緒に歩ませてください」理沙が言った。
「それぞれが経験した苦しみを、今度は他の人を支えるために使いたいんです」茉莉が続けた。
健太は窓の外を見た。五反田の街が夕日に照らされて、オレンジ色に染まっている。
「新しい始まりですね」健太が言った。
時輪は三人の手を順番に握った。その手は温かく、確かな存在感があった。
「はい」時輪は答えた。「私たちの新しい物語の始まりです」
病室に夕日が差し込み、四人の影が壁に映った。それは分離ではなく統合を、孤独ではなく繋がりを表していた。
外では東京の日常が続いている。人々が家路につき、明日への準備を始めている。そして病室の中では、四人の人生が新しい章を書き始めようとしていた。
時輪は窓の外を見ながら思った。真の治癒とは、過去を消し去ることではなく、それと共に生きる新しい方法を見つけることなのだ、と。
そしてその道のりを、今度は一人ではなく、理解し合える仲間と共に歩んでいくことができる。
夕日が完全に沈む前に、四人は新しい約束を交わした。それぞれが持つ傷と経験を活かし、同じような苦しみを抱える人々を支援するという約束を。




