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第32話 3人の軌跡

 五反田クリニックの待合室は、いつものように午後の光に満たされていた。


 佐伯健太は窓際の席に座り、手元の文庫本を読んでいた。

『海辺のカフカ』。ページをめくる手に、もう震えはなかった。

 新しい職場での生活は安定していた。中堅の貿易会社は彼に適度な責任と、適度な休息を与えてくれる。週末には精神保健のボランティア活動に参加し、かつての自分のような人たちの話を聞いていた。

「佐伯健太さん」受付から名前を呼ばれ、健太は本にしおりを挟んだ。

 田中医師との診察は月に一度の薬の調整だけ。もはや治療というより、定期的な確認作業に近かった。

 診察で、健太は山科時輪の不在について尋ねていた。

「山科先生は今日はいらっしゃらないんでしょうか」

 田中医師は少し困ったような表情を浮かべた。「山科さんは現在休職中です。申し訳ありませんが、詳しいことはお話しできません」

 健太はそれ以上追及できなかった。医師には守秘義務がある。しかし、胸の奥に重い石が沈んだような感覚が残った。


 鈴木理沙が椅子に座り、膝の上に広げたスケッチブックに何かを描いている。

 彼女の表情は穏やかで、以前のような躁状態でも抑うつ状態でもない、ちょうど良いバランスを保っていた。最近、メンタルヘルスをテーマにしたイラストシリーズが注目を集め、いくつかの雑誌に掲載されるようになっていた。

「鈴木理沙さん」理沙の名前が呼ばれた。

 彼女はスケッチブックを閉じ、軽やかな足取りで診察室に向かった。

「山科さんにお世話になっていたんですが、今日はお休みですか?」理沙は遠慮がちに言った。

「体調不良で休職されています。復帰の時期は未定です」田中医師の答えは簡潔だ。

 理沙は診察室を出ながら、心の中で不安が膨らんでいくのを感じた。山科時輪は自分にとって命の恩人のような存在だ。その人が体調を崩しているのだ。


 そして、本棚の前に立つ小柄な女性が渡辺茉莉だった。

 彼女は図書館司書として復帰を果たし、困難を抱える子どもたちのための読書プログラムを立ち上げていた。手に取った雑誌をパラパラとめくりながら、何かを確認するように頷いている。

 理沙の診察が終わり、今度は茉莉の番だ。茉莉は本棚に雑誌を戻し、静かに診察室に入っていく。

「山科先生は、お元気でしょうか?」 茉莉も同じ質問をしていた。

「プライバシーの関係で、詳細はお答えできません。ご心配をおかけして申し訳ありません」

 茉莉は小さく頷いたが、内心では動揺していた。山科時輪がいなければ、自分は今頃どうなっていただろう。


 三人はそれぞれ診察を終え、廊下に出た。しかし、誰も帰ろうとしなかった。まるで見えない糸に引かれるように、全員が受付の窓口に向かって歩いていた。

 健太が最初に窓口に聞いた。

「すみません」彼は受付の看護師に声をかけた。「山科先生のことで、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。どちらの病院に入院されているのか、面会は可能なのか...」

 看護師は申し訳なさそうに首を振る。

「職員のプライバシーに関わることはお答えできません」

 その時、健太の後ろから声がした。


「あの、私も山科さんのことで…」振り返ると、理沙が立っていた。

 彼女の手にはスケッチブックが握られており、その表情には健太と同じ心配の色が浮かんでいた。

「山科先生に本当にお世話になって」理沙は続けた。「何かできることがあれば…」

 看護師が答える前に、さらに後ろから小さな声が聞こえた。


「私も、山科さんのことで」茉莉だった。

 彼女は二人の後ろに立ち、床を見つめながら話していた。

「山科さんがいなかったら、私は今ここにいません。どうしても、お礼を言いたいんです」


 三人は互いを見つめ合った。見ず知らずの関係だったが、山科時輪という共通の恩人を持つことで、瞬時に理解し合えるものがあった。

 健太が口を開いた。「皆さんも、山科先生にお世話になったんですね」

 理沙が頷く。「私の双極性障害の治療で。山科さんがいなかったら、私はまだ混乱の中にいたと思います」

 茉莉も小さく頷いた。「統合失調症で。山科さんは私の世界を理解してくれた唯一の人でした」

 健太は深く息を吸った。「適応障害でした。山科先生が僕の命を救ってくれました」

 三人の間に、静かな連帯感が生まれた。それぞれが異なる病気を抱え、異なる道のりを歩んできたが、山科時輪という一人の女性によって救われたという共通の体験。


 看護師は三人の様子を見て、表情を和らげた。

「山科さんは、皆さんのことをよく話していました。回復されていく様子を、本当に嬉しそうに」

 健太が前に出た。「僕たちにできることはありませんか?今度は僕たちが山科先生を支える番だと思うんです」

 理沙も頷いた。「そうです。一方的に助けてもらうだけじゃ、申し訳ないです」

 茉莉は顔を上げた。「山科さんに恩返しがしたいんです」


 看護師は少し考えてから言った。「面会については、ご家族の許可が必要です。でも、お気持ちはお伝えできるかもしれません」

 三人は顔を見合わせた。初対面だったが、同じ目的を共有することで、まるで長年の友人のような結束が生まれていた。


 五反田クリニックの待合室で、偶然出会った三つの人生が、新しい物語を紡ぎ始めた。


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