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第31話 解離から統合へ

 「なぜ飯がまだできていない!?」


 廊下に出ると、父親の姿が見えた。

 肩幅の広い背中。仕事から帰ったばかりの疲れた様子。母親は台所で何かを準備しているが、その手の動きがぎこちない。空気が張り詰めている。まるで雷雲が部屋の天井に垂れ込めているような重苦しさ。


 母親が小さくなって謝っている姿を見て、時輪は胸の奥で何かが裂けるのを感じた。しかしそれは痛みではなく、まるで古い傷が最終的に治癒するときの、複雑な解放感だ。


「ごめんなさい、今日は病院に行って...」母親の震える声。

 バシンという音。

 テーブルを叩く音。


 その時、部屋の空気が微妙に変化した。まるで古い写真の中に新しい光が差し込んだような感覚。時輪は自分の内側で、静かな分裂が起こるのを感じていた。しかし今回は、その分裂を意識的に体験していた。


「止めなさい!」別の人格が言った。


 父親が振り返る。その目には驚きと困惑があった。

「お前は時輪じゃない!」

 父親の直感は正しかった。


 時輪は自分の心臓の鼓動を、逃げずに聞いていた。

 15歳の心臓が刻む恐怖のリズムと、50歳の心臓が刻む理解のリズム。二つの鼓動が徐々に同期していく。次の瞬間、時輪の中で何かが動いた。

 それは地殻変動のような、ゆっくりとした、しかし確実な変化だった。

 別の人格が立ち上がったが、今回は時輪はその人格と一体化するのではなく、横に並んでいた。


—怖かったわ。

 一人で耐えなくてよかったのよ!


—でも、私は弱いから

 弱くなんかない。生き抜いたじゃない!


—別の人になって逃げただけ

 それも一つの強さよ。でも、もう一人じゃないの!


—ありがとう

 ああ、こうやって君は生まれたのね。一人では耐えられないから、別の誰かに助けを求めたのね。


—今度は違う。私は一人じゃないのね。

 そうよ、みんな一緒に居るのよ!


—みんな同じ一人の人間なのね。

 そう、みんな私の一部。


—私は長い間、15歳の時輪、50歳の時輪、そして患者たちを守ろうとする時輪。別々の存在だと思っていたわ。でも違うのね?

 そうよ、すべて同じ時輪っていう人間の異なる側面なの。


—じゃあ、解離は病気ではなかったのね。

 そうよ!生き抜くための知恵だったのね。深い共感と、時間を超越する愛の表れだったの。患者の痛みも自分のものとして感じ、彼らの過去に立ち会い、共に傷を癒そうとする心の働きだった。


—本当に、ありがとう。

 いいえ、あなたのおかげで私は生き延びた。


—本当に、ありがとう!でも、もう一人で大丈夫。

 本当に?


—本当よ。いつでも50歳の私がいてくれるもの。もう15歳の私を守れる。

 そうね、もうみんな一緒に居るね。


—長い間、守ってくれてありがとう!

 

 互いの人格は、互いに微笑み合った。それは鏡を見ているような、しかし鏡では映せない深い理解に満ちた微笑みだった。15歳の傷ついた少女とも、彼女を守ろうとした別の人格とも、そして患者たちを救おうと時間を超越した50歳の女性とも…

 

 — 統合


 その言葉が時輪の心に浮かんだ。

 分離ではなく統合。逃避ではなく受容。否定ではなく理解。


 涙が込み上げてきた。…癒しの涙とも言うべきもの。

 すると、別の人格がゆっくりと透明になり始めた。

 消えるのではなく、時輪の中に戻っていく。長い間の別居を終えて、家族が再び一つ屋根の下に住むように…


 そして、父親と母親の姿も、だんだんと薄くなっていく。リビングの家具も、壁も、すべてが水彩画の絵の具が雨に濡れて流れるように溶けていく。

 すると、浮遊感が始まった。まるで温かい海に身を委ねるような感覚。

 時輪は自分が記憶の井戸から浮上していくのを感じた。深い井戸の底から、光のある水面へと…



 意識が戻ったとき、最初に感じたのは清潔なシーツの感触だった。

 病院のベッド。点滴の針が左腕に刺さっている。心電図のモニターが規則正しいビープ音を刻んでいる。

 看護師が椅子に座り、カルテを見ながら何かを書いている。時輪が目を開けたのに気づいて、彼は顔を上げた。


「山科さんの意識が戻りました!!」


 時輪はゆっくりと首を動かした。痛みはない。混乱もない。自分が誰なのか、今がいつなのか、すべてがはっきりと分かっていた。50歳の山科時輪として、確実にここにいる。


「どのくらい経ったのですか?」時輪は訊いた。声がかすれている。

「三日間です。解離性の急性症状と診断しましたが、脳波に異常はありませんでした。ただ、深い眠りにあるような状態が続いていました」


 三日間…時輪にとっては、まるで三十年の旅路のようだった。


「クリニックの患者さんたちや佐藤医師は?」

「心配ありません。佐藤医師が代理の精神保健福祉士を手配して、佐藤医師も診察を継続されているそうですので…あなたの回復を皆さん心配していましたよ」


 窓の外を見ると、見慣れた五反田の街並みが広がり、薄い雲に覆われた空から光が見えていた。


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