第30話 時を越える代償
時輪は最初、それが単なる疲労だと思っていた。
五反田クリニックの診察室で、午後の光が窓から斜めに差し込んでいる。いつものように患者の話に耳を傾けながら、時輪は自分の記憶が微かに揺らいでいることに気づいていた。
昨日の晩御飯が思い出せない。それどころか、昨日という日が本当に存在したのかどうかも定かでない。
「山科さん?」
佐藤医師の声が遠くから聞こえる。時輪は我に返り、患者から聞き取った記録を打つふりをしながら返答した。いつものように。
しかし、その微笑みの下で、何かが静かに崩れ始めていた。
時間というものは、実はとても脆いものなのかもしれない。
時輪はそんなことを考えながら、カルテに何かを打ち込もうとして、キーボードを打つ手が震えているのに気づく。震えているというより、その手が誰のものなのか分からなくなっている。50歳の精神保健福祉士の手なのか、それとも15歳の少女の手なのか?
患者が帰った後、時輪は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。
これまでに何度、彼女は時を越えただろう。佐伯健太の自殺を阻止した時。鈴木理沙の父親に憑依した時。渡辺茉莉を守るために不良少女の体を借りた時…
そのたびに、彼女は小さな断片を過去に置き忘れてきたのかもしれない。まるで古い毛糸のセーターがほつれていくように、彼女の現在は少しずつ解けていっていた。
診察室の時計が午後三時を指している。しかし時輪にはそれが午後三時なのか、午前三時なのか、あるいは全く別の時間なのか判然としない。時計の針は確実に動いているのに、時間そのものが意味を失いつつある。
「山科さん?」
看護師が扉をノックする音が聞こえる。時輪は返事をしようとして、自分の名前が何だったか一瞬分からなくなる。
私は…?
山科時輪。その名前が自分のものであることを確認するのに、妙に時間がかかった。
その夜、時輪はアパートで一人晩御飯を食べながら、テレビのニュースを見ていた。
アナウンサーが何かを話している。しかし言葉が頭の中で分解され、意味を失って空中に散らばっていく。彼女は箸を置き、手鏡を取り出して自分の顔を見つめた。
鏡の中の女性は確かに山科時輪のようだった。しかし、その目の奥に別の誰かがいるような気がする。15歳の時輪が、50歳の時輪の瞳の奥から外を覗いているような。
翌朝、時輪は診察室で患者を待っていた。しかし椅子に座っている自分が、現在の自分なのか過去の自分なのか、もはや区別がつかない。
患者が入ってくる。それは見知らぬ中年男性だった。しかし時輪には、その男性がまるで自分の父親のように見えた。
「やめて…」
時輪は小さくつぶやいた。患者は困惑した表情を浮かべている。
「やめて、お母さんを叩かないで!」
診察室の壁が溶け始める。現在と過去の境界線が曖昧になり、時輪は自分がどこにいるのか分からなくなった。50歳の精神保健福祉士として診察室にいるのか、それとも15歳の少女として実家のリビングにいるのか…
気がつくと、時輪は床に倒れていた。
そして闇の中で、彼女は自分がゆっくりと時間の井戸を落下していくのを感じていた。記憶という名の深い井戸を。
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目を開けた時、時輪は15歳になっていた。
それは単なる回想ではなく、完全なる回帰だった。
彼女の体は15歳の少女のもので、着ている服も制服で、部屋も実家の自分の部屋だ。しかし頭の中には50歳の大人の記憶がそのまま残っている。まるで古いラジオが複数の周波数を同時に受信しているような混乱状態だった。
「なぜ飯がまだできていないんだ!!」
廊下から父親の怒声が聞こえてくる。
時輪は立ち上がり、鏡を見た。そこには確かに15歳の自分がいた。しかし瞳の奥には、50歳の女性が患者たちを救おうとして時間を越えた記憶が宿っている。
時輪は部屋を出て、運命の夜へと向かった。
今度は逃げることができない。観察者ではいられない。
今度は完全に当事者として…




