第29話 本の森で見つけた光
渡辺茉莉は「本の森」という小さな図書カフェの前に立っていた。
山科時輪から教えてもらった場所だ。
古い本の匂いとコーヒーの香りが混ざり合う、どこか懐かしい空間。
茉莉は深く息を吸い込み、ガラス扉に映る自分の姿を見つめた。27歳の女性の顔には、以前のような恐怖の影は薄れていたが、代わりに静かな緊張が浮かんでいた。
「渡辺茉莉さん、ですね?いらっしゃいませ!」店主の女性が温かい笑顔で迎えてくれた。彼女は50代前半で、茉莉よりも少し背が高く、グレーの混じった髪を後ろで一つに束ねている。
「マネジャーの早田と申します。今日は、読み聞かせボランティアありがとうございます!子供たち楽しみにしてるんですよ!」
茉莉は小さく頷いた。
薬の副作用で感情の起伏は以前より平坦になっていたが、内側では小さな興奮と不安が渦巻いていた。彼女は手に持った絵本「ぐりとぐら」を見下ろした。表紙の愛らしいネズミたちが、まるで彼女を励ますように微笑んでいるようだ。
「本の森」の一角に作られた読み聞かせのスペースには、色とりどりのクッションが円形に並べられていた。そこに五人の子供たちが座っている。3歳から7歳くらいまでの年齢はバラバラだ。皆が共通して好奇心に満ちた目をしている。
茉莉はその光景を見て、一瞬めまいを感じた。子供たちの視線が自分に向けられている現実に、身体が硬直しそうになる。
茉莉は、時輪に教わった呼吸法を思い出し、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。一回、二回、三回。次第に緊張が和らいでいくのを感じた。
「みんな、今日はお姉さんが素敵な本を読んでくれるのよ」早田が子供たちに説明する。
茉莉はクッションの上に正座し、絵本を膝の上に置いた。子供たちの期待に満ちた顔を見回すと、不思議なことに恐怖よりも温かい感情が湧いてきた。
「みんな、こんにちは」茉莉の声は最初少し震えていたが、次第に安定していった。「今日は『ぐりとぐら』というお話を読みますね」
茉莉が絵本を開くと、子供たちは自然と身を乗り出した。彼女は最初のページを見つめ、そこに描かれた森の風景に自分も引き込まれていくのを感じた。
「ぼくらの なまえは ぐりと ぐら このよで いちばん すきなのは おりょうりすること たべること ぐりぐら ぐりぐら」
茉莉の声に、子供たちは静かに聞き入った。物語が進むにつれて、茉莉は子供たちの反応を感じ取りながら、声の調子を変えていった。
「ぐりとぐらは みちのとちゅうで おおきな たまごを みつけたよ わあー!ぐりぐら」森で大きな卵を見つけた場面では、茉莉の声も驚きに満ちた。
「たくさんかすてらが できるぞ… あま〜いかおり! たっぷりと さとうをまぶして もっとあま〜く ぐりぐら ぐりぐら」カステラを作る場面では、甘い香りが漂ってくるかのように読んだ。
「わあ、おいしそう!」一人の女の子が声を上げた。
「カステラ食べたい!」男の子が手を挙げて言った。
子供たちの素直な反応が、溢れた。瞬間…茉莉にも笑みが溢れ、全身が綻ぶ様に感じた。そして、何十年もの間忘れていた…魂同士の純粋な繋がりの様な物を感じた。
物語が終わると、子供たちから拍手が起こった。そして、一人の小さな女の子が茉莉に近づいてきた。
「先生、次はいつ来るの?」
その言葉を聞いた時、茉莉の目に熱いものが溢れた。「先生」と呼ばれるのは初めてだ。彼女の心の中で、何かが動いた。それは長い間眠っていた希望のようなものだった。
「来週も来るわよ!」茉莉は自然に答えていた。
子供たちが帰った後、茉莉は佐藤さんと一緒にコーヒーを飲んでいた。カフェの隅の席で、二人は窓の外を流れる人々を眺めながら静かに話していた。
「茉莉さん、とても良かったわ」早田が言った。「子供たちの表情を見ていたら、あなたが本当に本を、物語を、愛していることが伝わってきたの」
「ありがとうございます」茉莉は小さく答えた。「でも、正直なところ、最初はとても怖かったんです」
茉莉はコーヒーカップを両手で包みながら、自分の感情を整理しようとした。…今日の体験は、私にとって大きな転換点だ。
その晩、茉莉は久しぶりに日記を書いた。病気が悪化してからは、文字を書くことさえ困難だった時期もあった。しかし今夜は違った。ペンが自然と動き、言葉が溢れ出てくる。
『今日、私は子供たちに本を読んであげた。彼らの目が輝くのを見て、私は本の力を再確認した。
山科さんが教えてくれたように、バランスが大切なんだと思う。そして、私はようやくそのバランスを見つけ始めたような気がする。
子供の頃、私にとって本は避難所だった。現実の辛さから逃げ込める場所。でも今日、本は橋のような役割を果たした。私と子供たちを繋ぐ橋。過去の私と現在の私を繋ぐ橋。
まだ時々、頭の中で声が聞こえることがある。でも以前のような恐怖はない。それは私の一部として受け入れることができるようになった。病気は私の敵ではなく、私が学ぶべき何かを教えてくれる存在なのかもしれない。』
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翌週の診察日。
茉莉は山科時輪に読み聞かせの体験を、興奮気味に話した。
時輪は茉莉の話を聴きながら、変化を静かに見つめた。
彼女の顔には生き生きとした表情があった。薬の副作用で感情が平坦化していた茉莉に、再び豊かな感情の色が戻ってきたことが、明らかだ。
「茉莉さん、何か気づいたことはありますか?」時輪は静かに尋ねた。
茉莉は少し照れたように微笑んだ。
「実は、私、中学生の時に宮崎ミエコさんという先輩から教えてもらった言葉を大切にしているんです。『本を笑う者は、終いには同じ本に似る』という諺です。他人の心を笑った者は、いつか自分も同じように笑われる日が来る、という意味だと教えてもらいました…」
時輪は、自身が思いつきで言った事を思い出し、急に気恥ずかしくなった。
「…何か?」
「何も」時輪は慌てて首を振った。
「私は、ミエコさんに言われた時、私自身が、自分自身を嘲笑っている事に気づいたんです。自分自身を受け入れられていない事に…だから、先ず、私が、自分を受け入れないといけない。そうしたら、問題が、気持ちが。マシになり始めたんです。」
時輪は核心の理解力に感心しながら聞き続けた。
「…ただ、後で調べても、そんな諺は見つからないんです。もしかしたら、ミエコさんが私のために作ってくれた言葉だったのかもしれません…」
時輪が言葉を添えた。
「しかし、真実かどうかは重要ではありません。重要かどうかは、私自身が選択する事です!」
茉莉が頷く。
「山科さん、私の頭の中で時々まだ声が聞こえることがあります。でも今は…それが私の一部だと受け入れられるようになりました。それに振り回されずに、自分の人生を生きていけそうな気がします。トラウマや病から回復するとは、過去を消し去ることではなく、それと共に生きる新しい道を見つけることなんだ。そして、私、将来的には図書館に戻りたいと思うんです。特に児童書の担当として…」
時輪は頷き続けていた。
五反田診療所の診察室に、雲間から夕陽が差し、茉莉を照らし始めた。




