第28話 本の痛み、再生の糸 2
宮崎ミエコは動かなかった。
長い赤く染めた髪が顔を隠し、黒いロングスカートが床に触れそうなほど垂れ下がっていた。
彼女の背後には同じく長いスカートと派手な髪型の女子たちが三人立っていた。
「誰だ…」ミエコの声は低く、ほとんど囁くようだったが、廊下中に響き渡った。
その時だ。
天井の蛍光灯が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ点滅した。瞬間、頭上から様子を見ていた時輪は、瞬く間に、ミエコの体の中に吸い込まれた。若い女性の体。長い髪。制服のスカート。
ミエコ(時輪)が周囲を見渡すと、図書室のドア付近に立っていた男女リーダー格の女子は、血の気が引いた顔で立ち尽くしていた。彼女の仲間たちも同様に、まるで時が止まったかのように凍りついていた。そして、全員がミエコ(時輪)を凝視していた。
ミエコ(時輪)は、ゆっくりと床に落ちた日記を拾い上げた。表紙には「渡辺茉莉 私的記録」と几帳面な字で書かれていた。背表紙にはかわいらしい花の装飾が手描きされている。
「これは、誰の?」ミエコ(時輪)は落ち着いた声で尋ねた。当然、ミエコの声だったが、どこか違う響きがした。年齢を重ねた女性の威厳が混ざったような声だ。
リーダー格の女子が小さな声で答えた。「あ、あれは...図書委員の...」
「図書委員の…?」
「渡辺...茉莉」
時輪はゆっくりと日記をめくった。そこには茉莉の内面世界が、丁寧な字で記録されていた。
「なるほどね」時輪は静かに言った。「素晴らしい日記だ」
彼女はページを閉じ、図書室の中をのぞき込んだ。茉莉は本棚の影に隠れるようにして立っていた。小さな体。肩までの黒髪。大きな目には涙が溢れていた。
時輪はリーダー格の女子に向き直った。
「きみたちは何をしていたの?」
「私たち、別に...」
「別に…、じゃない!」時輪の声はミエコの声帯を通して、静かに、強い力を持って響いた。
「あなたたちは他人の心を覗き見て、笑っていたんだね?それがどういうことか分かる?」
女子生徒たちは黙ったまま立ち尽くしていた。
「人は誰もが孤独なんだよ!」ミエコ(時輪)が言った。
「それを紛らわすために、お前たちは群れる。弱い者を見つけて、自分たちは大丈夫だと安心するために虐める。そんな卑劣なことをして楽しいの?」
リーダー格の女子は顔を赤らめた。「私たちはただ...」
「諺に『本を笑う者は、終いには同じ本に似る』という言葉があるわ!」
時輪は日記を胸に抱きながら言った。「他人の心を笑った者は、いつか自分も同じように笑われる日が来る。覚えておきなさい!」
ミエコ(時輪)はその場に立っていた男子生徒に目を向けた。彼はずっと状況を面白がって笑っていた。「君、何がそんなに面白いの?」
「え?いや、別に...」
「別に、じゃないでしょう」ミエコ(時輪)は一歩前に出た。
男子は不安そうに後ずさりした。「俺は何もしてないよ」
「何もしないことも、時には罪になるんだよ!」
男子は小さく舌打ちをした。「うるせーな、偉そうに」
その瞬間、時輪の体の中で何かが流れた。それは合気道の道場で何千回と繰り返した動きの記憶だ。時輪はミエコの体を通して、しなやかに動いた。
男子が乱暴に腕を振り上げた瞬間、時輪は柔らかく受け流し、軸を定め、相手の力を利用した。男子の体は突然宙に浮き、廊下の向こう側に着地した。彼は尻もちをつき、驚きの表情を浮かべた。
廊下は再び静寂に包まれた。ミエコの仲間たちも、口を開けたまま状況を見つめていた。
「いじめは弱さの現れだよ」時輪は静かに言った。
「本当に強い人間は、弱い者を助ける」
彼女は日記を手に、図書室に入った。茉莉はまだ本棚のそばで震えていた。
「渡辺さん」時輪は優しく声をかけた。「あなたの日記、返しに来たわ」
茉莉は恐る恐る顔を上げた。彼女は怯えたウサギのようだった。
「ありがとう...ございます」彼女の声は小さく震えていた。
時輪は日記を茉莉に手渡した。「素敵な文章を書くのね」
「え?」
「あなたの言葉には力がある」時輪は微笑んだ。「本の中の人たちとあなただけの対話。それはとても貴重なものよ」
茉莉の顔に困惑の色が広がった。彼女は日記を受け取りながら、信じられない表情でミエコを見上げた。
「あなたが本を愛するように、本もまたあなたを愛しているわ」時輪は続けた。
「だから先ず、あなた自身が自分の気持ちを大切にして。あなた自身の気持ちは、いつか、あなた自身を守ってくれるから」
廊下では、リーダー格の女子たちがそそくさと逃げ去っていく音が聞こえた。投げ飛ばされた男子も立ち上がり、壁に沿ってゆっくりと離れていった。
「あの...宮崎さん...どうして?」茉莉は震える声で尋ねた。
時輪は答える前に、自分の意識がミエコの体から離れ始めるのを感じた。天井の蛍光灯が再び点滅した。
彼女の意識は再び浮遊し、診察室のソファへと戻っていった。
彼女は立ち上がり、窓の外を見た。
「本を守れなかった...。先ず、自分の気持ちを守らなきゃね…」時輪は小さくつぶやいた。
雨がやんでおり、雲の間から弱い日差しが漏れていた。




