第27話 本の痛み、再生の糸 1
時輪の意識は、茉莉の過去に漂っていた。
周囲はぼんやりとしていたが、図書室の光景だけは鮮明に見えた。─そこは薄暗い図書室。木製の本棚が壁沿いに並び、窓から差し込む午後の陽光が床に長い影を落としていた。
茉莉が小学校5年生の頃だ。小さな茉莉が一人、本棚の前に立っていた。彼女の手には『不思議の国のアリス』が握られている。
「渡辺さん、もうすぐ閉館時間よ」図書室の担当教師が優しく声をかけた。
「はい、わかりました。もう少しだけ...」茉莉の声は小さく、遠慮がちだ。
担当教師は微笑み、離れていった。
茉莉は本を閉じ、返却棚に向かったが、途中で立ち止まった。図書室の入口に、クラスメイトの集団が現れたのだ。
「あっ、本の虫がいる!」一人の男子が茉莉を指差した。
「また一人で本読んでるの?友達いないの?」女子の一人が笑いながら言った。
茉莉は体を小さく縮め、視線を床に落とした。彼女の小さな指が本をきつく握りしめる。
「ねえ、何読んでるの?見せてよ」男子の一人が茉莉に近づき、無理矢理本を取り上げた。
「返して...」茉莉の声はほとんど聞こえないほど小さかった。
「『不思議の国のアリス』?こんな子供っぽい本、まだ読んでるの?」男子は本をパラパラとめくった。
「ねえ、このページに落書きしちゃおうよ!」
「やめて!」茉莉の声が初めて大きくなる。
「うわ、怖い!」男子は冗談めかして本を高く掲げた。
「ほら、取ってみろよ!」茉莉は泣きそうな顔で本に飛びついたが、背が低く届かない。次の瞬間、男子が乱暴に本をできる限りの力で遠くに放り投げた。と、それは床に落ち、ページが折れた。
「何をしているの!」図書室の担当教師が戻ってきた。「本は大切に扱いなさい!」
男子たちは急いで逃げ出した。茉莉は床に膝をつき、傷ついた本を拾い上げた。彼女の小さな手が折れたページを丁寧に伸ばす。
「大丈夫、ちゃんと直せるわ」教師は優しく言った。「しょうがない子たちね…これは本を傷つけた彼らが悪いのよ。茉莉さんのせいじゃないわ」
茉莉は黙って頷いたが、その目には深い罪悪感が宿っていた。彼女は本を抱きしめるように持ち、静かに言った。
「私のせいです...本を守れなかった」
教師は困ったように茉莉を見た。「そんなことないわ。でも明日、修復しましょうね」
茉莉は本棚に『不思議の国のアリス』を戻す前に、小さく囁いた。
「ごめんなさい...ごめんなさい、アリスさん。あなたを守れなくて…」茉莉の目に涙が溢れた。
『本はね、大切にしなくちゃいけないの。本に傷がつくと、本も痛いと感じるのよ』 母親の言葉を想い出しながら、茉莉は折れた部分を両手で丁寧に伸ばし、本を胸に抱いた。そして、唇を噛み、黙って涙を流した。
「もう誰にも本を傷つけさせない!私が守るから!」
小さな誓いが、茉莉の心の奥深くに刻み込まれていく光景を、時輪は眺めていた。
次の瞬間、時輪の意識は連続で、意図せず又次元を越えた!
それは…初めての体験。
****
次に出会ったのは、15歳の茉莉。
茉莉は図書委員として、図書室の奥で古い文学全集の埃を拭いて、本を丁寧に並べ、貸し出しカードを整理していた。
その静かな午後、図書室のドアが勢いよく開き、数人の男女のグループが入ってきた。茉莉は本棚の影に身を隠すように立ち尽くした。
「ねえ、あの子のノート見つけたんだよ」一人の生徒が言った。
「何?渡辺のこと?」
「そう、あの本の虫」
「見せて、見せて!」
彼女たちは一冊のノートを広げた。それは茉莉の日記だった。
「キャー!!や、止めて!止めて!」茉莉は咄嗟に叫んだ。
「何々、ええと…『今日も図書室が私の唯一の居場所。ここだけが私を受け入れてくれる場所。本の中の人たちだけが私の友達』だって?…マジキモい!」
「『母さんはまた具合が悪いと言って布団から出てこない。父さんは仕事から帰ると黙ってテレビを見ているだけ』…ウケる!」
「『私は本の中にいるとき、誰にも見られずに存在できる。透明人間になれる』…病んでるね」
茉莉は震える手で本棚を掴んだ。彼女の内側で何かが壊れていくのを感じた。
リーダー格の女子が日記を振りかざした。「渡辺さん、本当にこんなこと思ってるの?」
茉莉は言葉が出ない。彼女の目に涙が浮かんだ。
「変わってるよね、いつも一人で。気持ち悪い」
「本当に友達いないの?可哀想」
「でもさ、自分から壁作ってるじゃん」
茉莉は震えながら言った。「返して…私のもの…」
「ほら、どうぞ!別に興味ないし」リーダーは日記を思い切りよく廊下に投げた。
投げられた日記は、放物線を描いて廊下へと飛んでいった…まるで小鳥が自由を求めて飛び立つように…だが、自由になれるはずもなく、それは思いもよらない場所に着地した。
廊下を歩いていた、長身の女子生徒の顔に直撃した。
見事なまでの精度で左の頬に直撃したその顔は…
宮崎三枝子、通称ミエコ。
彼女は五反田東高校で最も恐れられていた不良グループ「赤蝶会」のリーダーだ。
瞬間、廊下は奇妙な静寂に包まれた。
図書室にいた男女グループの笑い声が、魔法のように途切れた。




