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第26話 入院、そして退院

 空は薄いグレーに染まり、東京世田谷区の上に小さな雨雲が集まっていた。

 東京青樹会病院の窓ガラスに雨粒が静かに打ちつけ、規則的なリズムを刻む。それは小さなジャズドラマーが繊細なブラシワークを披露しているかのようだ。


 渡辺茉莉は3B病棟、4人部屋病室ベッドの縁に座り、読みかけの本を手に持ったまま、窓の外を見つめていた。

 彼女の小さな肩は少し丸まり、黒い髪は洗いたてだが、まだ少し絡まっていた。

「おはようございます、茉莉さん」白衣を着た若い看護師が明るい声で言った。彼女の手には小さな薬のカップと水の入ったプラスチックのコップがあった。


「今日の朝の薬です」

 茉莉は一瞬、看護師を見た。が、すぐに目を逸らした。彼女の大きな瞳には、まだ恐怖の名残が漂っている。

「あなたも彼らの一員なんでしょう?」彼女の声は小さく震えていた。

「いいえ、違います。鈴木医師そして私たちは茉莉さんを助けたいと思っています!私たちを信じて下さい!入院して3日目、未だ服薬していただいていません。このままでは…茉莉さん自身が、辛くなっていくだけですよ」


 茉莉は、躊躇しながらも彼女はゆっくりと手を伸ばし、薬を受け取り、一気に飲み込んだ。


「ご協力ありがとうございます!」看護師は優しく微笑んだ。

 茉莉はただ小さくうなずくだけだ。彼女の世界では、まだ壁の中から声が聞こえていた。

「彼らは薬で私を操作しようとしている」と…

 でも、その声は昨日よりも少し遠くなっていた気がした。まるで古いラジオの電波が徐々に弱まっていくように。


 1ヶ月が過ぎた。

 茉莉は病院の小さなデイルームのソファに座っていた。

 窓からは、開けた世田谷の街並みが見え、午後の光が床にまだらな模様を作っている。彼女の手元にはいつも本があった—村上春樹の『ノルウェイの森』。

 服薬調整が進み、徐々に妄想の声は遠ざかっている。体がだるく、頭が霧に包まれたような感覚。時には「彼ら」の声が突然大きくなり、茉莉は部屋の隅で震えることもあるが、輪郭がはっきりと見えるようになっていた。壁の中の声は、かすかなささやきになり、やがて時々しか聞こえなくなっていた。


「茉莉さん、今日の気分はどうですか?」

 主治医の鈴木医師が、柔らかな微笑みを浮かべていた。その目は同時に、茉莉の状態を冷静に観察していた。

「少し、良くなったかもしれません」茉莉はノルウェイの森から目を離さずに答えた。

「本を大分読めるようになったんですね」時輪は茉莉の手元の本を指差した。

 茉莉はゆっくりと顔を上げた。「文字が踊らなくなりました...前は、文字が私に語りかけてくるみたいで、読めなかったんです」

 鈴木医師は頷いた。「それは良かった。本が好きなんですよね?」

「小さい頃から、図書室が私の『安全地帯』みたいなものでした。本の中なら、安全なんです」



 三ヶ月目に入ると、茉莉は病棟の日常会話に少しずつ参加するようになっていた。

「渡辺さん、このコーヒー、砂糖入れますか?」

 食堂で看護助手が尋ねた。以前なら、この何気ない質問にも茉莉は隠された意味を探し、恐怖に駆られていただろう。今は違う。

「はい、少しだけお願いします」

 彼女の声はまだ小さく、少し震えているが、会話は続く。

「今日はよく晴れていますね」

「はい...空が青いです」

 短い、単純な会話。しかしそれは茉莉にとって、大きな一歩だ。

 リハビリプログラムにも参加するようになっていた。作業療法では、紙でしおりを作ったり、簡単な編み物をしたりする。その手の動きは、少しずつ自信を取り戻しているようだ。

 社会復帰プログラムのグループミーティングにも顔を出すようになった。そこで茉莉は、他の患者たちの話を黙って聞いている事が多い。まだ自分から話すことは少ないが、誰かが本の話をすると、彼女の目が輝く。


 そして、入院から六ヶ月後、茉莉は退院した。

 彼女は小柄な体型で、肩までの黒髪を持ち、目は大きく澄んでいた。

 以前のような警戒するような視線は薄れ、妄想も殆ど無くなっていた。しかし、表情の変化は乏しく、感情の起伏が平板化していた。薬の副作用だ。


****

 

 五反田クリニックでの再外来初診日、茉莉は時間通りに現れた。

 白いブラウスと紺色のスカート、肩にかけた薄いカーディガン。彼女の見た目は普通の会社員と変わらない。しかし、その目には感情の色が欠けている。


「茉莉さん、調子はどうですか?」時輪は診察室で穏やかに尋ねた。

「大丈夫です」茉莉の声はあまり抑揚がなかった。「薬はちゃんと飲んでいます」

「素晴らしい。妄想や幻聴は?」

「ほとんどありません...たまに聞こえることもありますが、前ほど怖くありません」

 時輪は茉莉をじっと見つめた。確かに症状は改善していた。しかし、そこには別の問題があった。茉莉の目に宿る光が、弱くなっている。彼女は安定していたが、生きる喜びも失っているようだった。

「仕事のことは考えていますか?」

 茉莉はわずかに首を振った。「まだ...自信がありません」

 時輪はカルテに何かメモをした。─茉莉は妄想のない状態になったが、このままでは社会復帰が難しい。彼女には何か、核となる体験を取り戻す必要がある。


 診察が終わり、茉莉が帰った後、時輪は椅子に深く腰掛けた。彼女はゆっくりと目を閉じ、呼吸を整える。時輪の指先がわずかに震えた。それは小さな電流が走るような感覚。

 やがて彼女の意識の一部が、ふわりと体から離れて部屋の天井近くまで上昇し、自分自身の姿を見下ろした。彼女の意識はさらに拡散し、別の場所、別の時間へと瞬間的に移動する。


 時輪の意識は、茉莉の心の傷の原体験「トラウマ」の場面に遭遇した。


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