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第25話 治療方針

 医局の窓からは、雨が降り始めた五反田の街が見えた。雨滴が窓ガラスを伝い、外の世界を曖昧な印象派の絵画のように変えている。


 時輪は茉莉の医療記録のページを捲りながら、佐藤医師に報告した。

「…よって、過剰なドーパミン作用を抑え為、今は薬物療法が必要なのに服薬を拒否しています」


 佐藤医師はカルテに目を通しながら頷いた。

「このままでは…外来治療は難しいな」

 

 時輪も静かに頷き、報告を続けた。

「茉莉さんは10年前、16歳の時に初めて統合失調症を発症しています。当時は適切な治療で症状は安定し、その後大学に進学、図書館司書として就職もできました。今回の再発は、仕事環境の変化によるストレスと、自己判断での服薬中断が引き金になったようです」


「典型的なパターンだね…」佐藤医師はモニターに向かい、キーボードを打ち始めた。

「オランザピンが効いていたようだが、自己判断で減薬したのか…」

「茉莉さんは、図書館での仕事に支障があると感じたようです」

 

 佐藤医師は思案するように窓の外を見た。

「入院後の治療計画としては、まずオランザピンの再開、状態が安定したら副作用の少ない新世代の抗精神病薬への切り替えを検討する事ができれば良いのだが…他に意見はあるか?」

 時輪は頷きながらメモを取った。


「茉莉さんにとって図書館の仕事は単なる職業ではなく、アイデンティティの一部だったようです。その喪失感も今回の発症に影響している可能性があります。落ち着いてきたら、心理社会的アプローチも重要と思われますが、先生如何思われますか?」

 佐藤医師は同意するように頷いた。


「山科さんの言う、心理的アプローチと薬物療法を組み合わせるのが効果的だろう。お互いの専門性を活かそう」

 二人は入院、退院後の治療計画を詳細に詰めた後、渡辺家族との面談の準備を始めた。


****


 夕方、診察室には静けさが漂っていた。美保と健一が向かい合って座り、その間に佐藤医師と時輪がいた。茉莉は看護師と一緒に別室で待機していた。

 佐藤医師が静かに切り出した。

「現在の茉莉さんは統合失調症の急性期の状態にあります。幻聴や妄想が強く、現実との区別が難しくなっています」

 美保は目を伏せ、健一は硬い表情で頷いた。

「このような状態では、外来通院での治療は難しいと判断しました」佐藤医師は続けた。「入院による集中的な治療をお勧めします」

「どのくらいの期間になりますか?」健一が低い声で尋ねた。

「個人差がありますが、急性期の症状が落ち着くまで2〜4週間程度、その後リハビリテーションも含めると2〜3ヶ月ほどかかる場合もあります」


「そんなに長く...」美保の手が小さく震えた。

「渡辺さん、茉莉さんは今とても苦しんでいます。彼女の世界は恐怖で満ちています。入院治療によってその苦しみから解放することができるんです」時輪は優しく言った。

「分かっています...でも、病院に入れるなんて...」美保はハンカチで目頭を押さえた。

「私が紹介する精神科病院は、最新の治療設備と経験豊かなスタッフが揃っています」佐藤医師は説明した。「決して閉鎖的な環境ではなく、回復を目的とした治療共同体として機能しています」

 健一は静かに妻の肩に手を置いた。

「美保、茉莉のためだ」

 彼の声には決意と諦めが混ざっていた。美保は涙をこぼしながら小さく頷いた。


「茉莉さんの同意が得られない場合は、医療保護入院という形になります。ご家族の同意が必要になります」

 健一は驚くほど落ち着いていたが、その目には父としての深い悲しみが宿っていた。

「娘のためにできることは何でもします」彼は力なく言った。

 窓の外では雨が激しさを増していた。粒子となった水滴が窓を打ち、室内に独特のリズムを作り出していた。その音は、言葉にならない悲しみと希望を奏でているようだった。



 翌朝、天気は一転して晴れ渡り、東京の空は奇妙なほど澄んでいた。

 茉莉は病棟に入る直前、一瞬立ち止まって空を見上げた。


「彼らは空にもいるの?」彼女は小声で父に尋ねた。

「いや、茉莉。空には雲があるだけだ」

 茉莉は不思議そうに健一を見つめた。一瞬、彼女の目に理解の光が宿ったように見えた。しかし、それはすぐに消え、茉莉は再び自分の妄想世界へと戻っていった。


 茉莉は静かに病棟の扉をくぐった。


 時輪は彼女が再び現実世界へと戻ってくる日を思い描いていた。壊れた鏡が再び一つになり、茉莉が自分自身を取り戻す日が来ることを…

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