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第24話 ガラスの迷路


 午後三時を過ぎた頃、五反田クリニックの待合室は沈黙に包まれていた。時々受付の電話が鳴り、看護師の静かな声が空間を漂うだけだ。


 再診の渡辺茉莉は、椅子に座るのを拒否し、待合室の隅に立っていた。

 肩までの黒髪は乱れ、ここ数日シャワーを浴びていないことが窺えた。

 彼女の小柄な体は緊張で強張り、目は常に動き、 — 壁のコンセント、天井の換気扇、受付のパソコン — を見ている。茉莉にとって、それらはすべてが彼女に向けられた監視カメラなのだ。


 美保は申し訳なさそうに時輪に視線を送った。

「あれから、ずっと薬を拒否して服薬していないんです…」


 時輪は茉莉に近づこうとしたが、彼女は一歩後ずさった。茉莉の目に涙が浮かんだ。

「近づかないで!あなたの瞳の奥に小さなカメラが仕掛けられているのが見える。みんな私の脳波を読み取って、私の考えを予測しているの。だから私は常に監視されているの。テレビも、街のカメラも、スマホも、みんな彼らとつながっている。昨日、スーパーのレジの人が『ポイントカードはお持ちですか?』って聞いたのよ。それは暗号なの。『あなたは監視されています』という意味なの」


 時輪は静かに茉莉に近づき、彼女の目の高さまで身をかがめた。

「茉莉さん、いつからこのように感じるようになりましたか?」

 茉莉は周囲を見回し、誰かに盗み聞きされていないか確認するように小声で話し始めた。

「1ヶ月前、図書館で働いていた時...本を整理していたら、『日本の諜報活動史』という本が目に入ったの。その瞬間、すべてが繋がった。館長は最近、私の担当を変えたの。児童書コーナーから書庫管理へ。それは私が何かを発見することを恐れていたから。彼らは私が真実に近づきつつあることを知っていたの」


「真実とは?」時輪は静かに尋ねた。


「私たちは常に監視されている。政府だけじゃない。もっと大きな組織...国境を超えた存在が私たちの一挙手一投足を記録している…彼らは選ばれた人間の脳に直接情報を送ることができる。私はその一人に選ばれたの。だから彼らは私を黙らせようとしている」茉莉は震える手で髪を耳にかけた。

「薬はなぜ飲まないのですか?」

「薬は私の意識を曇らせる。彼らの声が聞こえなくなる。でも私は知る必要があるの。真実を…」茉莉は唇を噛んだ。


「なるほど…」

 時輪は相槌を打ち続け、茉莉の妄想世界の一貫性を理解しようとした。

 彼女の恐怖は非常に現実的で、彼女にとってはそれが唯一の真実だ。すべての知覚、すべての出来事が彼女の妄想体系の中で歪められ、再解釈されている。


 時輪は診察室の椅子に深く腰を下ろし、瞳を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。吸って、吐いて。カーテンの向こうから聞こえる東京の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。

 時輪の指先がわずかに震えた。それは小さな電流が走るような感覚。

 やがて彼女の意識の一部が、ふわりと体から離れて部屋の天井近くまで上昇し、自分自身の姿を見下ろした。彼女の意識はさらに拡散し、別の場所、別の時間へと瞬間的に移動した。 


****


 時輪は、渡辺茉莉の内面世界に触れた。まるで透明な膜を通り抜けるような感覚。そこには茉莉の心の風景が広がっていた。


 最初に時輪の目に映ったのは、無数の小さな鏡の破片だ。

 それらは空中に浮かび、ゆっくりと回転していた。それぞれの破片は現実の一部を映し出していたが、角度も大きさもバラバラで、全体としては歪んだ像を作り出していた。

 ある破片には図書館の書架が映っていた。

 別の破片には母親の顔。

 また別の破片には、茉莉のアパートの一部。

 それらの映像は本来つながるべきものなのに、バラバラに分断されていた。


 そして、その断片の間を茉莉が歩いている。

 彼女はまるでガラスの迷路の中にいるかのように、慎重に進んでいる。

 時々手を伸ばして鏡の破片に触れようとするが、それらは常に彼女の手から逃げていく。

「誰かいるの?」茉莉の声が響く。

「彼らがまた来たの?」茉莉は恐怖と混乱が交錯する。 

 恐怖の源は、鏡の破片の反射だった。

 それらは、茉莉の妄想を映し出す窓になっていた。

 ある破片からは、「彼らは常に見ている」という声が漏れ出ていた。

 別の破片からは、「逃げ場はない」という囁きが聞こえた。

 茉莉はこれらの声に囲まれ、孤立し、彼女の恐怖している。

 断片化された世界の中で、彼女はもはや何が現実で何が妄想なのか、区別できない。


 茉莉が一つの破片の前で立ち止まるのを見た。

 その破片には図書館の風景が映っている — 古い本の匂い、木製の書架、窓から差し込む午後の光。茉莉がかつて安らぎを感じていた場所。その映像は歪み、書架の間に潜む影や、本の背表紙に書かれた暗号のような文字 —


「ここも安全じゃなくなった」茉莉は小さく呟いた。

「どこにも行き場がない」


 茉莉の恐怖は、もはや再統合する力がどこにもない。

 彼女の脳内の化学的不均衡が作り出した世界とはいえ、茉莉にとってはそれが唯一の現実。

 それは、あまりにも残酷で、辛い、孤独な経験。


 この断片化された世界のどこかに、希望の光はないだろうか。

 時輪は注意深く探すと、小さな鏡の破片の一つに気づく。それは他のものより明るく輝いていた。時輪はそこに近づき、覗き込んだ — 茉莉の子供時代の記憶。初めて図書館を訪れた日のこと。本の森の中で安心感に包まれていた瞬間 — それは茉莉の本質的な部分、彼女がかつて持っていた安定した自己感覚。


 時輪はその破片に触れようとした。

 それを核として、茉莉の世界を再び統合する手助けをしたかった。

 しかし…彼女にはそれができなかった。

 彼女は単なる観察者に過ぎなかった…のか?


「茉莉さん!」


 時輪は茉莉の内面からゆっくりと離れ始めた。

 鏡の破片が遠ざかり、茉莉の姿も小さくなっていった。


****


 気づくと、時輪は診察室の椅子に座っていた。

 水面から浮上してくる様に、重力が徐々に戻ってくる様に…

 指先が震えていたが、それは次第に収まった。


 時輪は、カルテに簡潔なメモを書き込んだ。

『幻聴、被害妄想、関係妄想、思考伝播妄想がみられる。現実検討能力の著しい低下、意識の断片化が顕著。自発的な服薬は拒否しているが、自分の状態についての洞察の瞬間も見られる。しかし、自己の核となる健全な部分も残存。図書館での肯定的体験を足がかりに、関係性の再構築が可能か…』


 彼女は一度ペンを止め、窓の外を見た。そして、彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

 そこには、五反田の街が窓に映っていた。

 無数の物、断片、建物、車に、太陽の光が反射し、人々が行き交っている。その光景は、奇妙なことに茉莉の内面世界に似ていた。


 ばらばらに見える物、光に繋がりや理由があり、実は一つの大きな都市として機能しているのだ。

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