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第23話 茉莉が描いた世界

 診察室のドアが静かに閉まり、時輪は茉莉の両親と向き合った。

 窓から差し込む午後の光が、診察室の床にまだらな影を作っていた。


 時輪は二人の表情を観察した。

 疲労、心配、そして言葉にできない罪悪感が、その顔に刻まれている。


「お二人からもう少し詳しくお話を伺えますか」時輪はカルテを開きながら言った。


 美保はハンドバッグを膝の上で握りしめたまま、視線を落とした。その指先は少し震えている。

「茉莉が最初に診断を受けた時…に症状が出たのは、高校2年の冬でした…」

 美保の声は静かで、どこか遠い記憶を掘り起こすように慎重だった。

「2月の寒い日でした。茉莉が夕食を食べながら突然...『ねえ、聞こえる?』と言い出したんです」

 美保は一瞬言葉を切り、自分の記憶の正確さを確かめるように夫を見た。健一は無言で頷く。


「テレビがついていて、ニュースを放送していたんです。『あのアナウンサー、私に向けて話しかけてる』と茉莉が言って...最初は冗談かと思ったんですが、彼女の顔は真剣で...」

 健一が静かに言葉を継いだ。「最初は単なる思春期の想像力だと思ったんです」彼の声は低く、その調子には後悔が染み込んでいた。まるで過去の自分を裁くかのように。

「もっと早く気づくべきだった!でも、茉莉は昔から物語の世界に入り込むのが得意な子で...」

 16歳で初発の様子、統合失調症の診断、薬物療法の開始、一旦は症状が安定していた様子、

 …徐に一枚の写真を見せてくれた。


 制服姿の茉莉が、図書館らしき場所で微笑んでいる。その笑顔には、今の彼女からは想像できないような明るさがあった。


「高校時代から本が好きだったんですね」時輪は写真を指さす。

 美保の顔がわずかに和らいだ。「ええ、小さい頃から。図書室は茉莉の『安全地帯』みたいなものでした」

「それで大学では?」

「文学部に進学しました。図書館情報学を専攻して...」美保の声に少しだけ誇りが混ざる。

「成績も良くて、クラスでは一番だったんです」健一も続けた。「大学時代は症状も安定していました。医師の指示通りに服薬して、定期的に通院もしていた。卒業後は、区立図書館に就職することができて...」

 時輪はメモを取りながら、彼らの言葉の背後にある感情の流れを感じ取っていた。順調だった日々、希望に満ちた時間、そして何かが壊れ始めた瞬間。


「大学卒業後は図書館司書として働き始め、茉莉は毎日頑張って過ごしていたんです。変わらず安定していました」

 時輪は二人を見つめた。「では、今回の症状の悪化について。何か引き金になるようなことがありましたか?」

 美保と健一は一瞬顔を見合わせた。その視線の交換には、言葉にする前の暗黙の了解があった。 

 何かを隠しているわけではないが、話すことで現実になってしまう何かへの恐れ。

 

「一ヶ月前に茉莉が働いていた図書館で組織改編があって...」

 美保は言葉を選ぶように慎重に話し始めた。時輪は彼女が事実だけでなく、その伝え方にも気を配っていることを感じた。

「茉莉のポジションが変わり、新しい上司との関係がうまくいかなかったようです」

 健一が硬い表情で補足した。「新しい館長は...効率性を重視する人で、茉莉のような...本と読者を大切にするタイプの司書を評価しない人だったようです」

「彼女は毎日疲れた様子で帰ってきて、次第に無口になっていきました」美保の声が少し震えた。「最初は単なる仕事のストレスだと思っていたんです」


「それから?」時輪は静かに促した。


「ある日、茉莉がテーブルに薬を置き忘れたのに気づいたんです」美保は目を閉じ、その記憶を思い出すのが辛いかのようだった。「確認すると...数日分が残っていました」

 健一の口元が硬く結ばれた。

「自己判断で減薬していたようです。『副作用で仕事に集中できないから』と言っていました」


「そして症状が再発した...」時輪は彼らの話を整理しながら結論づけた。

 美保はハンドバッグから小さなハンカチを取り出し、目頭を押さえた。

「最初は小さな変化でした。『誰かが見ている気がする』と言い出して...それから『図書館のカメラが私だけを監視している』と...」

「私たちが本気で心配し始めた時には、もう遅かった」健一の声は空気中に沈むように重かった。


「彼女は私たちさえも信じなくなっていました」

 時輪は窓の外を見た。雲が流れ、太陽の光が一瞬遮られた。診察室の中に淡い影が広がる。時輪は茉莉の内側で起きていたことを想像した。安定していた世界が少しずつ崩れ、現実と妄想の境界が溶け始める過程を。


「ご両親が気づかなかったのは当然です」時輪は優しく言った。

「統合失調症の再発は、このように少しずつ進行することが多いんです」

 美保の目に涙が光った。健一は腕を組み、何か言いたげな表情をしていたが、言葉にはならなかった。

 時輪はメモを締めくくりながら、次の質問に移った。

「茉莉さんは、仕事の状況をどのように捉えていましたか?何か具体的な不満を話していましたか?」


 美保はハンカチを握りしめたまま答えた。「『本の貸し出し数だけが大事なのよ』と言っていました。『読者がどんな本を必要としているかなんて、誰も気にしていない』って...」


「彼女にとって図書館の仕事は単なる職業ではなかったようですね」時輪は静かに言った。


「本は茉莉の人生そのものでした」美保の声には、娘への深い理解と愛情が滲んでいた。

「小さい頃から、困ったときは本の世界に逃げ込んでいました。そして大人になってからは、本と人をつなぐ仕事に誇りを持っていた...」


 時輪はその言葉を聞きながら、茉莉の心の風景を思い描いた。

 本によって支えられ、本によって成長し、そして本を通して他者とつながろうとしていた茉莉。その世界が崩れる時、彼女の心も一緒に崩れていったのだろう。


「ありがとうございます!」時輪はカルテを閉じた。「これからの治療方針を考える上で、大切な情報です」

 二人は疲れた表情で同時にうなずいた。診察室の空気は重く、しかし言葉にならない希望も混ざっていた。


 窓の外では、再び雲が流れ、日差しが部屋に戻ってきた。床に落ちる光の模様が、ゆっくりと形を変えていく。

 時輪は、茉莉の散らばった内面世界も、いつかこの光のように再び統合されることを願った。

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