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第22話 壁からの声

 空は薄く灰色に染まり、やがて雨が降り始めるかもしれないという予感が、クリニックの窓からわずかに漏れる光の中に浮かんでいた。

 五反田クリニックの待合室には、どこか途切れそうな空気が満ちていた。新しい家具と古い建物の匂いが混ざり合い、壁の時計だけが容赦なく時を刻んでいく。カチ、カチ、カチ。


 27歳の渡辺茉莉は、入り口付近に立ち尽くしていた。

 肩までの黒髪が顔を半分隠し、153センチの小柄な体は緊張で硬直している。茉莉の大きな瞳は常に動き、何かを探しているようだ。彼女の母親、美保は隣の椅子に腰掛け、申し訳なさそうに周囲を見回している。父親の健一は窓際に立ち、外の通りを無言で眺めていた。


「お座りになりませんか?」受付の看護師が茉莉に優しく声をかけたが、茉莉は答えず、ただ警戒するように壁際に寄った。


 診察室のドアが開き、山科時輪が現れた。50歳の時輪は、柔らかな微笑みを浮かべていたが、その目は茉莉の状態を冷静に観察していた。

「茉莉さん、おはようございます。私は山科時輪です」


 茉莉は一瞬、時輪を見た後、すぐに目を逸らした。

「あなたも、私を監視している人たち、彼らの一員なんでしょう?」

 彼女の声は低く、震えていた。言葉の端々に恐怖が滲んでいる。

 美保は立ち上がり、時輪に近づいた。「すみません。一週間前から急に悪化して…薬も拒否するようになりました」


「分かりました。茉莉さん、少しお話しできますか?」時輪は茉莉に近づこうとした。

「近づかないで!」茉莉は突然大声で叫んだ。

「あなたの頭の中には装置が埋められている。私の思考を読み取るための!」

 茉莉の言葉に、待合室にいた他の患者たちが振り向いた。健一は窓際から離れ、困惑した表情で娘に向かって一歩踏み出した。


「茉莉、落ち着きなさい。先生は助けてくれるんだよ」

「お父さんまで...」茉莉の目に涙が浮かんだ。「彼らはお父さんもコントロールしている」

 時輪は静かに診察室へ向かう扉を指さした。「少し静かな場所でお話ししませんか?」


 その瞬間、茉莉の顔から血の気が引いた。

「入りません!あそこには盗聴器が仕掛けられている!私の思考を読み取る装置がある!」

 彼女は後ずさりし、出口に向かって走り出そうとした。父親が反射的に腕を伸ばし、茉莉の肩を掴んだ。

「放して!放してよ!」茉莉は叫び、暴れ始めた。

「みんな私を監視している!テレビも、ラジオも、街中のカメラも!」


 時輪は静かに茉莉に近づき、彼女の目の高さまで身を屈めた。

「茉莉さん、あなたは今、とてもとっても怖い思いをしていますね」茉莉の暴れる動きが少し緩んだ。

「あなたの感じていることは、とっても怖い事ですよね。私は絶対に否定しません。あなたにとって真実です…今は診察室に入らなくても大丈夫です。ここでお話ししましょう」時輪は穏やかに話した。


 茉莉は戸惑いながらも、少し落ち着いたように見えた。

 時輪はゆっくりと待合室の隅にある椅子を指し示した。

「少し座ってみませんか?」

 茉莉はためらいながらも、ようやく椅子に腰を下ろした。時輪も彼女の正面に座る。

「茉莉さん、あなたはどんな物が聞こえますか?」

 茉莉は周囲を見回し、小さな声で言った。「声が...壁の中から...時々聞こえるんです」

 時輪は頷いた。「その声は、何と言っていますか?」

「私の秘密を...知っていると言っています。私が図書館で間違えて本を配架した時のこと...それを皆に暴露すると...」美保は茉莉の横に座り、娘の手を取ろうとしたが、茉莉は素早く手を引っ込めた。


 時輪は茉莉の反応を注意深く観察していた。

「茉莉さん怖いですよね!本当に大変な思いをしていることは、とてもよく分かります!でも、、一人ではないんですよ!私たちはあなたを助けたいと思っています!」


 茉莉は顔を上げ、初めて時輪の目をまっすぐ見た。その瞳には混乱と恐怖が渦巻いていたが、わずかな信頼の光も見えた。

「私...私は気が狂ってるんでしょうか?」

 その言葉は部屋に重く沈んだ。


「いいえ!狂っていません!違います!」


「あなたは病気なんです。それは統合失調症という病気です。あなたの脳内の化学物質のバランスが崩れているだけなんですよ」


 茉莉は床を見つめたまま、微かに頷いた。

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