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第19話 無知の罪

 五反田の空は妙に青かった。梅雨の合間に現れる、洗濯したてのシャツのような青空。

 

 鈴木理沙はそれを見上げながら、クリニックへと足を進めていた。今日は薄いベージュのカーディガンに白いワンピース。ここ最近では最も明るい色の服装だった。

 彼女の中の鬱は少しずつ引き潮のように退いていた。けれど、それは完全に去ったわけではない。波が引いた後の砂浜に取り残された海藻のように、強い自己否定の感覚が、ま彼女の心に張り付いたまま…


「最近はいかがですか?」時輪は彼女を見るなり微笑んだ。理沙の表情が以前より柔らかくなっていることに気づいていた。

 理沙は小さく頷いた。「少しずつですが…よくなっています。お薬も続けていますし、朝起きるのも少し楽になりました」

「それはよかったです」時輪は微笑んだ。


 理沙は窓の外に目を向けた。オフィスビルの向こうに見える狭い空は、鮮やかな青だった。


「山科さん、以前お話しした…拓人のことなんですけど」

 理沙の声が震えだした。

 時輪は静かに頷き、彼女が話を続けるのを待つ。


 理沙の細い指が膝の上で絡み合った。「...あの時、あんなふうに言われて...」

 彼女の声が震えた。「『お前は二重人格者だ』『壊れ物だ』...そんな言葉を投げつけられました。でも、私は彼に説明できなかった。自分でも何が起きているのかわからなかったから」


「その時は、まだ双極性障害と診断されていなかったんですよね」時輪は優しく言った。

「はい。ただの気分の波だと思っていました。でも...」理沙は言葉を探すように少し黙った。

「彼は私を、ただの...壊れモノのようにしか…」

 理沙の声が途切れ、涙が床に落ち、嗚咽に変わっていった。


『壊れ物…』 


 理沙の言葉と嗚咽が、時輪の心に突き刺さった。

 そして、その瞬間—

 窓の外から、風に揺れる街路樹の音が聞こえた。

 時輪の意識がゆっくりと浮き上がり始めた。急速に浮遊感に包まれ、視界が霞み、部屋の景色が歪み、理沙の嗚咽が遠くなる。その感覚に身を任せると、意識だけが違う場所へと引き寄せられていった。


****


 気がつくと、ここは、大学の廊下らしい。窓の外には桜が咲いている。春の陽光が廊下の床に四角い光の模様を描いていた。


 廊下の向こうから、男子学生たちの笑い声が聞こえてきた。

 声の主が見えてきた。二人の若い男たちが廊下を歩いてきている。一人は背が高く、整った顔立ちで、もう一人はやや小柄で、茶色く染めた髪をしていた。


「あいつ、マジでヤバイよな!…お前と別れた後、俺に近づいてきたんだぜ」

 小柄な方—康二が言った。

「マジかよ!」

 背の高い方が言った。これが拓人に違いない。


「鈴木、それでお前とも…?」

「ああ!」康二は自慢するように胸を張った。

「マジで?あいつそんなやつだったのかよ」

「そうそう、ちょっとオカシイよな、あの鈴木って」

「あれは二重人格者だって。俺が見抜いたんだ。俺と付き合ってた時に、お前とも寝るなんて、壊れた奴だぜ!別れといて良かった!」

 拓人が笑いながら言った。 

「これ、みんなに言わないとな!鈴木理沙、二重人格者。俺たち二人と関係もってた女!ってさ」

「やばくね?」康二も笑った。

「あいつ、俺の前では『拓人が未だに好き』とか言ってたんだぜ」

 二人の笑い声が廊下に響いた。


 二人の態度には無知と小児性独特の軽さがあった。理沙のことを噂話の種にしているだけで、彼女の苦しみなど少しも理解しようとしていない。…心の中で怒りが沸々と沸き起こるのを感じた。


 茶髪の男—康二が、何か言いかけたところで、拓人が彼の腕を小突いた。

「あ、あの...心理学概論の石川先生だ...」

 その時、廊下の角から現れたのはグレーのジャケットを着た五十代くらいの女性だった。


 時輪は直ぐ様、眼下の大学教授の体に飛び込んだ。

 自分の手を見た。それは少しシワの入った女性の手。ポケットには眼鏡と万年筆。


 「君たち、何を話しているのかな?」

 時輪(教授の身体)の声は落ち着いていたが、怒りの響きがあった。


 拓人と康二は驚いたような表情を浮かべ足を止めた。


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