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第1話 境界線を越えて

 小学校三年生、冬の夜のことだった。雪が降り、部屋の窓ガラスが冷たく白い結晶で覆われていた。

 時輪は借家の小さな自室で、明日の算数のテストのために問題集を解いていた。

 廊下の向こうから、玄関のドアを激しく閉める音が聞こえた。

「ただいま!」 〜ガシャン!

 いつもの不機嫌な父の音が響いた。

 彼女の注意は問題からどんどんと離れていく。時輪は鉛筆を置き、耳を澄ました。又、今日も忌々しい時間が始まるのだ…

 父の靴音が廊下を進み、リビングに入っていく。そして、それに続く沈黙。あの恐ろしい沈黙。嵐の前の静けさ。


「なぜ飯がまだできていない?」父の声が家中に響き渡った。

「ごめんなさい、今日は病院に行ってきて...」母の声は震えていた。小さく、か細い。

「言い訳か?こんな時間まで何をしていたんだ!」ガタンという音。テーブルを叩いたのだろうか?

 時輪は体を丸め、膝を胸に引き寄せた。彼女は知っていた。この後に何が起こるのかを。

「俺は毎日家族の為に我慢して働いて、嫌な仕事もこなして、疲れ果てて帰ってくるんだぞ!」

 暫くして、バシンという音と同時に母の悲鳴が聞こえた。

「私も家事をして、時輪の面倒を見て...」

 時輪は目を強く閉じた。涙が頬を伝った。


「無駄飯食いが!」父の怒声。

「お前はただ家にいるだけじゃないか!こんなことだから、お前は何をやってもダメなんだ!」

 時輪の足が震えていた。心臓は胸を破りそうなほど激しく鼓動していた。気づくと彼女は立ち上がり部屋を出て、リビングに向かっていた。

「やめて!お母さんを叩かないで!」

 時輪の小さな声は、驚くほど部屋に響いた。父と母が彼女を見た。

 父の目は、彼女に焦点が合っていない様に見えた。母の目は、彼女に救いを懇願しつつ冷徹な様にも見えた。

「私が悪いの!」何故かいつもそう思えた。私が悪いんだ…

「お前は黙っていろ!」父が時輪に向かって近づいてきた。


「いい子はお部屋でおとなしくしているものだ!」その大きな手が時輪の肩を掴み、彼女を壁に押し付けた。痛みが背中から全身に広がった。

「あなた止めて!時輪には手を出さないで!」母が必死に叫んだ。

「うるさい!この家の規則を破った罰だ!」父の手が時輪の髪を掴んだ。時輪は痛みで目が霞んだ。

「こんな生意気な子に育てたのはお前のせいだ!」

「私が悪いのよ!お願い、時輪には…」母親が父の腕に縋りつくのを見た。

「黙れ!」バシン、という鈍い音。母が床に倒れた。

「私が悪いって!言ってるでしょ!!」時輪は叫んだ。

 その声は自分のものとは思えなかった。どこか遠くから聞こえてくるような。

 その瞬間…彼女は自分が体の外にいるような感覚になった。耐えられない苦しさも感じなくなり、そして、天井の隅からすべての光景を見下ろしていた。

 父は時輪の身体を部屋の外に引きずっていってドアを閉めた。

 時輪の身体は床に座り込み、膝を抱えている。

 外で母が泣いている声がする。


 翌朝、時輪が目を覚ますと、母の顔は薄く化粧をして腫れを隠していた。父はいつものように出勤していた。

 朝食のテーブルに座ると、母は普段と変わらない顔で「おはよう」と言ったが、時輪には目を合わせなかった。

「お母さん...」時輪が言いかけた。

「昨日のことは忘れなさい。お父さんは疲れていただけよ。」母は淡々と言った。

「仕方ない。私たちは、お父さんが居ないと生きていけないのよ!」

 仕方ない。これが母の決まり文句だ。

「仕方ないの?誰が悪いの?お父さん?お母さん?私?」

「…」母と目が合った。その目は弱い者を蔑む目だった。

 父も怖かったが、母の目にもゾッとしていた。あの蔑む様な眼差し。

「誰も頼れない!早くこの家を出て行く!」その小さな誓いは、まだ幼い彼女の心の奥深くに刻み込まれていった。


 時輪はいつの日からか、習慣的に自分の体の外にいるような感覚に浸る様になっていた。天井の隅からすべてを見下ろしているような。その光景が遠ざかっていく。誰の顔の表情も感じなくなる。その特殊な能力が芽を出すまでには、何十年もの歳月が必要だった。

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