第17話 運命の変換点
クリニックの窓を叩く雨の音が、静かな部屋に響き始めた。予報では晴れのはずだった。天気予報士の言葉と現実の間には、いつも少しずれがある。人の心も同じかもしれない、と時輪は思った。
まず…
「よく分かったわ、理沙さん!…先ずは、あなたが心に大きな傷を負った時、話せるわね?」
彼女は一瞬言葉を詰まらせたが、 目に涙を浮かべながら話した。
「小学校4年生の時、美術の先生が絵画コンクールに出すように勧めてくれました」理沙は続けた。「毎日学校から帰ると、部屋に閉じこもって描き続けました。
そして…完成した絵を見て、父は怒ったんです!
『こんな不気味な絵を誰が評価するんだ!』って。
あの頃の私は、何でも感情のままに描いていたから、暗い色や激しい筆致になることもあって…
そして…
父は私の画材を全部ゴミ袋に入れて捨ててしまったんです。『もう描くな!』って」
時輪の意識に、かすかな震えが走った。それは彼女がよく知っている感覚だった。目の前の景色が揺らぎ、耳の奥でかすかな鈴の音が聞こえ始める。時間が彼女を呼んでいた。
暗闇の中に急速に意識が引き込まれていく。
「山科さん?」理沙の声が遠くなっていく。「大丈夫ですか?…山…」
時輪は返事をしようとしたが、声が出なかった。彼女の意識は急速に浮遊感に包まれ、クリニックの部屋が歪み、溶け始めた。そして、彼女は時間の流れに身を任せた。
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時輪が目を開けたとき、彼女は知らない部屋にいた。壁に貼られた時間割表と漫画のポスター。小さな勉強机と、その上に置かれた画帳とクレヨンのセット。
窓の外では、夕方の陽光が家々の屋根を橙色に染めていた。
「ここは…」時輪は自分の声に驚いた。
それは彼女の声ではなかった。低く、太い、男性の声だった。彼女は慌てて自分の手を見た。太い指と、筋肉質の腕。それは明らかに彼女のものではなかった。
そして彼女は気づいた。鏡に映る顔は中年の男性のものだった。眉間に深いしわがあり、角張った顎に一日分のひげが生えていた。
「鈴木…さんのお父さん?」
彼女は混乱しながらも、徐々に状況を理解し始めた。彼女は鈴木理沙の記憶をたどって、過去へと飛んでいったのだ。そして今、理沙の父親の体を借りていた。
「理沙…」
彼女は部屋を見回した。この家は、理沙が語った過去の記憶の中の場所だった。
…今夜、彼女の絵が捨てられる夜なのだろうか?
廊下から小さな足音が聞こえ、ノックの音がした。
「お父さん、ごはんよ」母親の声だった。
時輪は扉を開けた。廊下に立っていたのは、理沙の母親だった。理沙に似た柔らかな目をした女性は、彼(彼女)を見上げて微笑んだ。
「今日はおでんよ。理沙も待っているわ」
時輪(中年男の身体)は無言で頷き、彼女についていった。
リビングのテーブルには、小学生の理沙が座っていた。まだ幼さの残る顔に、あの黒い瞳。しかし、時輪が知っている理沙とは違い、この子の目には輝きがあった。
「お父さん、見て!」理沙は嬉しそうに絵を掲げた。
「明日のコンクールに出す絵、完成したよ!」
時輪(中年男の身体)は少女の手から絵を受け取った。それは青い鳥が舞い上がる様子を描いたものだったが、普通の子供の絵とは明らかに違っていた。筆の運びに独特のリズムがあり、青の濃淡が鳥の動きに命を吹き込んでいた。しかし、背景は暗い色彩で、鳥の周りには渦巻くような不穏な模様が描かれていた。
時輪は理沙の父親としてその絵を批判するべきタイミングだと悟った。
しかし、彼女の目に映る絵は、ただ才能に満ちたものだった。
「素晴らしいね、理沙!」
時輪は理沙の父親の声で言った。少女の目が驚きで見開かれた。母親も箸を止めて彼を見た。
「本当に?」理沙の声は小さかった。
「ああ」時輪は頷いた。「この青い鳥は、自由を表しているのかな?」
理沙はゆっくりと頷いた。「うん。でも、まわりが暗いのは…」
「恐れているから?」時輪(中年男の身体)は優しく言った。「自由というのは時に怖いものでもあるよね」
理沙の目が大きく開かれた。「お父さん、わかるの?」
時輪(中年男の身体)は微笑んだ。「もちろんさ。絵には、言葉では表せない気持ちを描くことができる。それが芸術の力だと思うんだ」
理沙は椅子から飛び上がり、時輪(中年男の身体)に駆け寄った。「お父さん!」
時輪(中年男の身体)は少女を抱きしめた。そして小さく囁いた。
「理沙の才能は特別だよ!それを大切にして」
少女は頷いた。「うん!」
「そうだ!」時輪は突然思いついたように言った。
「ガールスカウトって知ってる?」
理沙は首を傾げた。「うん、お友達の真美ちゃんがやってるよ」
「興味ある?」時輪は言葉を選びながら続けた。
「そこでは色々な体験ができるし、キャンプもあるんだ。自然の中で絵を描く機会もあるかもしれない」
「本当に?」理沙の目が輝いた。
「ああ。明日、入団の申込書を持って帰ってきたら?」
「いいの?」理沙は母親を見た。
母親は明らかに驚いていたが、すぐに微笑んだ。「もちろんよ」
「やったー!」理沙は嬉しそうに飛び跳ねた。
時輪は穏やかな満足感を覚えながら、理沙を見つめた。彼女はわずかな介入で、理沙の人生の軌道を変えたかもしれない。美術の才能を否定せず、むしろ社会性を育む場所へと導くことで、彼女の内側に隠れた双極性の兆候を少しでも和らげられる筈だ。
急に、不思議な感覚が時輪を包み込んだ。彼女の意識がまた浮遊し始め、理沙の父親の体から抜け出そうとしていた。
「お父さん?」理沙の声が遠くなっていく。
「大丈夫だよ」時輪(中年男の身体)は最後に微笑んだ。
「理沙は、自分らしさを大事にして!、色んな事にもチャレンジして!」
世界が再び溶け始め、時輪の意識は時間の流れに身を任せた。
「う、うん…お父さん?」理沙は頷きながら、目を丸くした。
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