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第15話 双極の萌芽 1

 時輪はただ静かに聞いていた。彼女のペースを尊重することが大切だと知っていたからだ。

 クリニックの壁に掛けられた時計の針がゆっくりと動いていく。それは彼女の言葉が紡がれていくのと同じリズムを刻んでいるようだった。


「最初に描いたのは、青い鳥でした。なぜか空は描かなくて、ただ白い紙の中に青い鳥だけ。母は『素敵ね』と言ってくれましたが、父は『鳥なんて飛んでいくだけだ。役に立たない』と…12色セットのクレヨンで、お気に入りは空色でした。空みたいな青い色で、いつも家族の絵を描いていました」


 理沙は左手で髪をかきあげ、窓の外に目をやった。そこには五反田の街並みが広がっていたが、彼女の視線はもっと遠い場所を見ているようだった。おそらく、過去という名の迷宮の入り口を。

「家族の絵ですか」時輪は穏やかな声で促した。

「はい。父と母と私。母はいつも笑っていて、父は…」理沙は一瞬言葉を詰まらせた。


「父は真面目な顔をしていました。私の絵の中では、いつも…」

 理沙が語る幼少期は、一見すると平凡な中流家庭の日常だった。世田谷の住宅街で、元高校教師の父親と、パート勤めの母親に育てられた一人娘。しかし、その平凡さの表面を少し掘り下げると、そこには目に見えない亀裂が走っていた。

 理沙はそこで言葉を切り、窓の外を見た。そこには何もなかったが、彼女の目は遠くを見つめていた。時輪は彼女の沈黙を尊重し、待った。


「…父はいつも厳しかったです。小学校の成績表を持って帰ると、『なぜ100点じゃないんだ』と。95点を取っても『残りの5点はどうした』と。」

 彼女の細い指が、膝の上で少し震えていた。


 時輪は黙ってうなずいた。

 彼女の語る家族の構図は、多くの患者が持つトラウマの原型をなぞっていた。過剰な期待と、それに応えきれない自己への失望の繰り返し。

「母は…どうでしたか?」時輪は静かに尋ねた。

 理沙は深いため息をついた。「母は優しかったです。でも…」

 彼女は言葉を選ぶように間を置いた。

「父の前では別人になるんです。『お父さんはあなたのことを思ってのことよ』と言って、私の味方になってくれませんでした」


 窓の外で、鳥が飛んでいくのが見えた。自由に羽ばたいていく姿に、理沙の視線が吸い寄せられる。

「中学生になると、絵を描く時間が私の避難所になりました。教室で浮いていることが多くて…。いじめられたわけじゃないんです。ただ、透明人間のように扱われるのが辛かった。一度だけ反抗したことがあります。美術部の展示会があって、私の絵が選ばれたんです。でも父は『そんなもので浮かれるな。勉強が一番だ』と言って…」

 理沙の声が少し震えた。

「私は泣きながら叫びました。『なんで私の絵を見てくれないの?』って」

 彼女は膝の上で手を握りしめた。爪が白くなるほど強く。

「父は何も言わず部屋を出て行きました。そして翌朝、私の画材が全部捨てられていました」

 時輪の胸に痛みが走った。子どもの情熱を否定することがどれほど深い傷を残すか、彼女は職業柄よく知っていた。

「でも、母が内緒で新しい画材を買ってくれたんです。『お父さんには内緒よ』って」

 理沙の表情が少し和らいだ。

「それからは、父の目を気にしながら絵を描くようになりました。表では良い子を演じて、裏で自分の世界を持つ。二重生活みたいな!」


 クリニックの窓を叩く雨の音が、静かな部屋に響き始めた。予報では晴れのはずだった。天気予報士の言葉と現実の間には、いつも少しずれがある。人の心も同じかもしれない、と時輪は思った。

 理沙の声は、雨音にも負けない強さを持ち始めていた。

「美術室だけが安全地帯でした。筆を持つと、手が勝手に動き出すんです。でも、同時に怖かった…」

「怖かった?」時輪は静かに尋ねた。

「ええ。筆を持つと、別の私が出てくるみたいで。普段の大人しい私じゃない、何かに取り憑かれたような…」


 理沙はそこで口を閉ざし、自分の言葉に驚いたように見えた。時輪は彼女の言葉の奥に何かを感じ取った。双極性障害の前兆だったのかもしれない。創造性の爆発と、それに伴う自己の変容。


「高校時代はどうでしたか?」

 理沙の唇が微かに動いた。それは笑顔と呼べるほど大きなものではなかったが、何か温かいものが彼女の顔に宿った。

「美術部に入りました。初めて、居場所ができたんです。部長が私の絵を見て、『理沙は才能がある』と言ってくれて。」

 彼女の声が少し上ずった。

「でも、同時に変わり始めました。ある日は朝から晩まで描き続けて、何枚も仕上げる日があって。次の日は筆も持てないほど疲れ切ってしまう。先生は『情熱的だね』と言ってくれましたが…」


 窓の外の雨は激しさを増していた。遠くで雷が鳴り、その音が部屋の中まで届いた。理沙は小さく肩を震わせたが、話し続けた。

「大学の美術学科に進んだのは自然な流れでした。でも、そこで彼に会ったんです。拓人に。」


 その名を口にした瞬間、理沙の表情が変わった。時輪はその変化を見逃さなかった。傷と呼ばれる感情の揺らぎが、彼女の顔を横切った。

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